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環壕入口

吉野ヶ里集落の、当時の東の正門と考えられている場所です。外壕を埋め立てて土橋を造り、その内側には大きな門を備えていたようです。また門の両側一帯には敵の侵入を防ぐための特別な仕掛け(逆茂木)があったと考えられており、この場所の重要性がよく分かります。

環壕入口

守りの様子

守りの様子

東の正門を始め吉野ヶ里は外壕に7カ所、南北内郭に3ヶ所の入口が確認されています。
こうした入口では、兵士たちが厳重に警備をしていたと考えられます。
手には敵の攻撃から身を守る盾と敵を攻撃する矛や弓を持ち、また体には木で作った鎧を着ていたと考えられています。

兵士1

兵士2

逆茂木・乱杭

逆茂木の写真
▲逆茂木

先を尖らせた杭や鋭い枝の付いた木を斜めにたくさん立てて、敵の侵入を防ぐバリケードの役割をはたしていたと考えられています。吉野ヶ里では東の正門の他にも、一番重要な区域に近い門の左右などにこうした設備が見つかっています。

吉野ヶ里遺跡では環壕集落東方の丘陵縁辺部の壕の内側に多くの柱穴が検出されました。のり面に存在する柱穴は外に向かって斜めに穿たれたものが多く、敵の侵入を防ぐための乱杭や逆茂木の遺構と考えられ、復元整備がなされています。

外壕

外壕

吉野ヶ里丘陵の袖部を巡るように外壕が掘削されており、外壕で囲まれた範囲は南北1km以上、東西は最大で0.5km以上、面積は約40haと考えられています。
基本的には丘陵袖部の傾斜が緩くなった部分に掘られていますが、北部では北墳丘墓を取り囲むように、丘陵部に上がっています。

断面の形態は南西部低地で逆台形となっている以外はV字形です。なお北墳丘墓周辺の外壕については未発達のため遺構保存の観点から平面逆台形に復元しました。
発掘時の規模は幅2.5~3.0m、深さ2mが一般的で、最大の部分は幅6.5m、深さ3mです。
堆積土層は地上ローム土が地形的に低い壕の外から堆積しているため、壕の外に土塁が存在したものと考えられます。
環壕集落の外縁を画する外壕は北内郭、南内郭に比べて規模が大きく、深く中世の城郭に見る「空堀」のような状態であり、防御的性格の強い施設と想定し、土塁上に柵列を設けました。
また壕との位置関係から、櫓であったと想定される建物跡に櫓を設置しました。

門と鳥形

門と鳥形
▲南内郭入口(東側)門に
設置した鳥形

弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。
鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから、弥生時代に穀霊信仰が存在したと推察されます。
当公園においては佐賀県神埼市の「託田西分貝塚遺跡」の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています。

穀霊信仰と鳥に対する崇拝

穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。
それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。
鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます。
鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。
天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われます。