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南のムラ

南のムラ~一般の人々の居住地~

南のムラの写真

弥生時代の吉野ヶ里集落の一般の人々が住んでいた地域と考えられています。

北内郭や南内郭と違い、この区域を囲むような壕などの特別な施設がないこと、竪穴住居3~4棟に対し共同の高床倉庫1棟が付くという、日本全国で見つかっている一般的な集落のあり方と良く似ていること、北が上位で南が下位という古代中国の考え方に影響を受けて作られていると見られる吉野ヶ里集落全体の中で一番南に位置していること、などがこうした考え方の基になっています。

南のムラのマップ

南のムラ地域の全体像

  • 弥生時代初頭から後期終末期まで集落域として利用された地域であり、弥生時代初頭から中期中頃まで、周辺の集落を主導する立場の集団が環壕集落を営んでいました。
  • ただし中期前半に祭壇(檀状遺構)が設けられるとその周辺では集落は営まれなくなりますが、後期後半になってこの祭壇の周囲に溝が設けられると北墳丘墓と深い関わりともって存在する北内郭との間に竪穴建物や立柱建物などの居住施設は営まれなくなります。
  • 後期後半になると外環壕により囲まれた段丘部分を取り囲むような状況で竪穴建物と高床倉庫からなる集落が存在します。この集落域の建物比率は、竪穴建物3に対して立柱建物(高床建物)1の割合であったと考えられます。この割合は弥生時代後期を中心とした集落で、多数の竪穴建物と立柱建物が発掘された福岡県筑紫野市の「以来尺(いらいじゃく)遺跡」でも同様です。
  • 一帯は、土取りや開墾による地形の改変が大規模におこなわれたため全体像は把握しにくいですが、尾根部分を取り囲むように北へ開く平面馬蹄型に集落が営まれていたようです。
  • 尾根部分の建物跡空白地では弥生時代後期以降古墳時代初頭までの間、建物以外の遺構も殆ど存在しませんが、北西隅で唯一土坑の存在が確認されました。土坑からは復元対象時期の土器多数を出土しましたが、中には手焙(てあぶり)型土器が含まれており、この空間の中で祭祀的な行事が行われていた可能性も考えられます。
  • 「南のムラ」地域は「北内郭」・「南内郭」に住む人々と「南のムラ」に暮らす集団のために必要な生活資材や水田以外の食糧供給の場として、畑地が存在した可能性が高いと考えられます。
  • 吉野ヶ里遺跡では弥生時代中期から後期にかけて10基の甕棺墓から多様な織り方によって織られた貝紫やあかねで染められた国産の絹布片が出土していますが、この絹布は吉野ヶ里遺跡や周辺で織られたものと考えられており、この「南のムラ」一帯の畑地や空閑地に養蚕用の桑の木が植樹されていた可能性があります。
  • 段丘南端に位置する祭壇の可能性を持つ大規模な檀状遺構の周囲に1~2条の溝が巡らされています。「北内郭」・「南内郭」などと同様、機能を特別化するために設けられた施設である可能性が高いでしょう。以上のように「南のムラ」地域は、一般の集落構成員の居住区であったと考えられます。しかし、約40ha規模の大環壕集落内部に存在することは「北内郭」・「南内郭」に居住する高い階層の集団を支える集団の居住区と考えられます。

発掘調査

S61年度~S63年度に神埼工業団地計画にかかる発掘調査を実施。その後、H元年以降、H15年度にかけて、確認調査や発掘調査が実施されました。

弥生時代前期

段丘尾根の南端に溝に囲まれた集落が形成されました。段丘周囲に散在する集落群に対して主導的立場を持つ集落であったと考えられます。
弥生時代前期には、広さ約2haの環壕集落が形成されます。環壕内から発見された鞴羽口・取瓶・銅滓は、弥生時代の青銅器鋳造に関わる重要な資料といえます。

弥生時代中期

多数の竪穴建物と貯蔵穴からなる居住域と、西方緩斜面には倉庫群が営まれ、後者は、居住区内の貯蔵穴群とは別に、集団が管理する集落全体の倉庫群といった意味合いが強いものと考えられます。
この時期の竪穴建物や貯蔵穴跡からは、弥生土器や朝鮮半島系磨製石器に混じって、朝鮮系無文土器が多く出土しました。
弥生時代中期前半には、檀状遺構の北西隅付近には、青銅器鋳造工房が設けられ、銅剣、銅矛が製作されたことが、炭化物と灰が交互に堆積し、溝状の土坑の内部からは、銅剣・銅矛鋳造型や、銅滓などが出土しています。
中期後半になると、数は減少するものの、中期中頃までの居住域に継続して、竪穴建物が営まれます。

弥生時代後期

弥生時代後期になると、段丘西の裾部に大きな環壕が掘削され、その内部に集落が営まれ、先代まで居住区となっていた地域の周囲に竪穴建物と高床倉庫からなる集落が形成されます。前期に環壕によって囲まれ区域に営まれた中期の集落中心部は、広大な空閑地となったようです。また、外環壕の外側に多数の掘立柱形式の高床倉庫が営まれます。
弥生時代後期後半~終末期になると、後期前半に比べ、竪穴建物と、掘立柱建物が増加し、祭壇跡と考えられる檀状遺構を取り囲むように溝が設けられます。その時期は、北内郭や南内郭に新たな環壕が設けられ、それら空間が明確に区画された時期と一致しています。
竪穴建物は、全体が完全に遺存しているものがほとんどなく、形態的な特徴を述べることは困難ですが、2個の主柱穴と中央に炉、壁際土坑・壁際小溝・ベッド状の遺構等を備えていたものが多いと考えられます。規模としては短辺、3.52m~6.98m、長辺3.50m×8.10mとなっています。
掘立柱建物の殆どは、高床倉庫と考えられるもので、1間×2間規模の建物跡以外は、1間×1間規模のもので占められます。
公園整備としては、この弥生時代後期後半~終末期にかけて、同時存在の可能性が高いものを選別し、形態についても他地区を含めた既発掘資料との比較を進めて、復元することとしました。

南の祭壇

北墳丘墓(きたふんきゅうぼ)と同じように、人工的に作られた丘です。祭りに使う土器がたくさん見つかっており、中には、神に捧げたと思われる動物や鳥の骨などが入っているものもありました。また北墳丘墓から祀堂(しどう)、北内郭(きたないかく)の主祭殿(しゅさいでん)を結ぶ「聖なる軸線」の延長線上にあることなどから、祭りに関わる施設と考えられますが、中からはお墓が1基も見つかっていないこともあり、北墳丘墓のように祖先の霊を祀(まつ)る所ではなく、天の祭り(自然や暦に関わる祭り)に関する施設だったと考えられています。

青銅器工房跡

青銅とは、銅と錫(すず)と鉛(なまり)を混ぜ合わせて作る金属で、青い錆(さび)が出ることから「青銅」と呼ばれています。青銅製品は、石で作った鋳型(いがた)の中に、溶けた銅を流し込んで作りますが、こうした作業に必要な道具類(ふいごの羽口<はぐち>や坩堝<るつぼ>、取瓶<とりべ>など)や、青銅を作る原料、高温で溶かしたことを物語る焼けこげた土などがまとまった場所から見つかったことから、青銅を作る専用の工房跡だったと考えられています。

青銅製品1
青銅製品2
青銅製品3

鋳型

作りたい製品の形を前もって石などに掘り込んだもの

羽口

温度を上げるために風を送る「ふいご」の先端部分

坩堝

金属を溶かす器

錫塊(すずかい)

青銅の原料

南のムラの居住者達の性格

南のムラは、最も一般的な集落に近いムラであり、その居住者達も一般身分であった可能性が高いです。ただし、他の集落とは性格を異にする吉野ヶ里環壕集落内に居住していたことを考えると、「国」社会では比較的高い位置にいるが、一方、吉野ヶ里環壕集落内では大人層に従事する役割があったと考えられます。
伊勢神宮の古記録にみえる神官達の下で雑役に従事する役割を担った「戸人夫(へびと)」のような役割の人々であったことが考えられます。

南のムラは一般的身分層(下戸層)の人々の生活の場であったと考えられます。
ここでは他の一般のムラの同じく農業労働に日々従事している人々の季節ごとの生活の様子が展開されていたと思われます。土器、農具、カゴなど身のまわりの日用品のほとんどはムラの人々が自らの手で制作し、秋の収穫の後には女性達が臼と杵で脱穀を行う姿もみられたことでしょう。祭りの時には南内郭同様、各家ごとに儀式が行われ、儀式の後には歌舞飲食を伴う宴会がムラの広場で盛大に行われたことでしょう。

集落内で最も一般的なムラと祭壇の地域

南のムラは北内郭、南内郭と異なり、ムラを区画する内壕を有していません。

一部行った発掘調査から、竪穴住居三棟ほどに高床一棟というまとまりの集合体を成していると考えられます。このような形態は周辺の一般集落と同様であり、集落内で最も一般的な性格をもったムラであったと考えられます。

南祭壇は墳丘墓と考えられていましたが、平成9年度の調査で墳墓は発見されず、これを囲む溝や供物の入った祭祀用の壺が発見されたことから、祭壇の可能性が考えられています。

古代中国の都城の例に当てはめれば北墳丘墓が祖霊を、南祭壇は精霊を祀る場であったと考えられます。

農耕

吉野ヶ里環壕集落の近辺では現在までのところ、水田跡は発見されていません。しかし、吉野ヶ里丘陵の西側を流れる貝川に接する現在の水田部で、鋤、鍬、竪杵などの木製農具が発見されており、農耕が行なわれていたことは確実です。
ただし、様々な側面から一般の集落と異なると考えられることや、主たる居住者であったと想定している支配者層(大人層)が日常的に一般的な農耕労働に従事していたか疑問が残ること、『魏志』倭人伝の記述や後の官衙にも匹敵する大規模な南内郭西方倉庫群の存在から周辺の集落から租税を徴収していたと考えられたことから、一般の集落における農耕とは異なり、一定の限られた目的のために行われていた農耕であった可能性があります。 伊勢神宮には神嘗祭などの祭りに使用し、神に捧げるための供物(飯と酒)をつくるための水田(御田)が存在し、その他、神事に使用するものは祭祀を行いながら神宮内でつくる風習が存続してます。
こうした風習は9世紀にはすでに存在していたことが『皇太神宮儀式帳』等から知ることが出来ます。

南のムラやその周辺では水田、畑、果樹園などを利用した様々な農作業が行われていました。

春から秋にかけては低地部の水田で稲作が行われ、日々農作業に追われていました。また、同時に丘陵上の畑ではソバ、オオムギ、アワ、ヒエ、キビ、などの穀類や、マメ類、ウリ類、大根などの野菜などが生産され、果樹園ではヤマモモやモモ、アンズ、カキなどが育てられていました。
畑はかなりの広さで、その中を、それぞれの生産単位ごとに管理していたと考えられます。

このようにして収穫された作物はそれぞれの一家に必要な分を除いて、吉野ヶ里の国の租税として倉と市に収められていました。

このほかにも、麻や桑、染色の材料となる植物なども栽培されていて、麻から布の材料となる麻糸を生産し、桑は絹糸のもともとなる蚕の餌として利用されていました。

生活と祭祀

この時期に新しく出現してきた天祭的祭祀は「暦」の祭祀であったと考えられます。
農耕儀礼を主体とした「暦」の祭祀が吉野ヶ里環壕集落の一年の生活サイクルを規定していたと考えられます。

一年の生活サイクルの表

春(3月~5月)

春はこれからはじまる稲作のための田起こしや畦畔の修理など、稲の種まきや田植えのための準備が行われます。これに伴う稲作の予祝のための祭が祭祀の中心であり、なかでも稲の種まきに伴う播種儀礼は、春の祭りの中で最も重要な祭りであったことが想像できます。

弥生時代の稲の播種儀礼の実体は不明ですが、東南アジアの稲作地帯で鶏や豚などを生け贄として捧げる風習があることや、佐賀県菜畑遺跡の水田跡畦畔や奈良県唐古鍵遺跡からブタ(イノシシ)の下顎骨が出土していること、9世紀初頭の『古語拾遺』の「御歳神」についての記述の中に「大地主神、田をつくる日に、牛のししを以て田人に食わしめき」と、稲作のはじまりに当たって牛を犠牲として捧げた様子が記述されていることから、動物を犠牲として捧げる風習が存在したことが考えられます。
出土例から、ブタ(イノシシ)を捧げることが一般的だった可能性が高いです。

また、伊勢神宮の稲作儀礼を記述した『皇太神宮儀式帳』、『止由気宮儀式帳』(9世紀前半)では、播種儀礼のための鍬(忌鍬)の柄を作るために、祭官が山入りすることが播種儀礼の始めの儀礼と記述されています。

弥生時代後期後半の吉野ヶ里環壕集落でも、こうした特別な祭りに使う農具は祭司者によりそのたびごとに製作された可能性が考えられます。伊勢神宮では、神宮の田の播種儀礼が終わった後、周辺の村々の種まきが始められたことが記録されています。

暦の祭祀がはじまったと推定される弥生時代後期後半の吉野ヶ里環壕集落では、古代中国の例に倣い、「王」が暦の支配を示すために、「クニ」の首長達を集め集会を行い、その席で日影測定による種まきの日を指示したことも想像できます。

稲作儀礼の他、春の訪れを祝う予祝の祭として、東南アジアの民俗事例や、日本各地の民俗事例、『万葉集』などに見える?歌・歌垣や菜つみ花見が祭として行われた可能性もあります。

夏(6月~8月)

夏は田の草取りや中耕のほか、養蚕が行われたことが想像できます。吉野ヶ里遺跡、立岩遺跡28号棺などから出土した絹により、織り密度や繊維断面計測値などによる中国、楽浪産絹との比較から、すでに北部九州地方で養蚕が行なわれていたことが確認されている。

養蚕は桑の葉が盛んに繁る6月、7月頃を中心に行われたと推定できます。また、吉野ヶ里遺跡では甕棺墓から麻が出土しており、麻が育つ6,7月頃に平行して麻の栽培がおこなわれたことも推定できます。

これらの農作業に伴う祭祀に関しては不明な点が多いですが、稲の生育を阻む害虫の駆除を祈って行われる虫追い儀礼に関しては、『古語拾遺』の「御歳神」のなかに稲の害虫を退治する手段として牛の肉と男根形の祭具を田の水口へ置けとあり、この記述と対応するような男根形木製品が唐古鍵遺跡などから出土していることから、存在した可能性があります。

この季節はまた、一年で最も日が長くなる夏至が訪れる時期でもあります。
吉野ヶ里遺跡の北内郭の主軸は夏至の日の出と冬至の日の入りの線と一致しており、夏至に祭りが行われたことは十分想定できます。

古代中国では『週礼』、『准南子』に夏至の日影測定を行ったことがみえ、『漢書』王?伝に都の北郊にある方壇で祭祀を行ったことが記述されています。古代中国の夏至節は行事の上では端午と似通っており、本来、雨乞いの祭礼としての性格が強かったという指摘があります。

こうしたことから、夏至の日に日影測定や雨乞いの儀礼が行われた可能性を考えることもできます。

秋(9月~11月)

秋は稲の収穫の季節であり、一年の行事の内で最も重要な収穫祭が行われたことが推定できます。弥生時代の収穫祭の儀礼は、伊勢神宮の稲作儀礼を記した『皇太神宮儀式帳』、『止由気宮儀式帳』などの古代文献、東南アジア稲作地帯の民族事例、アエノコトなど日本の民俗事例から、収穫した稲を神や祖霊に捧げ、その稲で作った飯と酒など供物を供え、それを神や祖霊と共に共食することを基本にしたと推定できます。
収穫祭は後に、新嘗祭、神嘗祭などと呼称されるようになりました。

『万葉集』に「誰そこの屋の戸ぶるニフナミにわが背に遣りて斎ふこの戸を」(誰ですか、この家の戸をがたがた押すのは。ニイナメの夜で夫さえも外に出して忌みこもっていますのに)という歌があり、古代においてニイナメの祭の主体がその家の主婦で、一定期間物忌みを行われたことを窺わせます。
このように家の主婦が稲穂を祭り、一定期間物忌みを行う収穫祭の形態はマレー半島など、東南アジアの稲作地帯にも存在します。またこの時、稲穂を天井など家の中の高い場所に吊し、神や祖霊に捧げる風習も広く見られるところです。これは高い場所がより神聖であるという観念の表れとされています。

弥生時代にも家の女性達により稲を祀る儀式が行われたことや収穫した稲穂を天井から吊して神や祖霊に祈りを捧げる風習が存在した可能性が考えられます。収穫祭の前には祭に使う道具の製作や、収穫の日を「王」が占う日影測定、これを伝えるための集会が行われたことも想像できます。『魏志』倭人伝には収穫祭の様子は記述されていませんが、『東夷伝』の馬韓には「10月に刈り入れが終わると昼夜酒を飲んで舞い歌う」という記述があります。

冬(12月~2月)

冬は、一年の内で最も日の短くなる冬至が訪れる季節です。太陽の光が最も弱まり、この日を境に少しずつ日足が延びていく冬至を太陽の復活と関連づけて祝い、祭を行う風習は広く、世界各地の民俗風習に見られるところです。

古代中国では『周礼』に冬至を正月とする暦を使用していたことが記述されており、この日、天子が都の南郊にある天壇におもむき、祭祀を行う冬至天が行われました。
その後、立春をもって正月とする暦が採用されたが、魏の景初元年に再び冬至祭天を行うようになったとされています。宮中の大嘗祭も冬至の頃に行われ、古くは冬至を以て新年としていたことを想像できます。

吉野ヶ里の北内郭は夏至の日の出、冬至の日の入りを結んだ線と主軸が一致しており、冬至が極めて重要な日と意識されていた可能性が高いでしょう。

これらのことから、弥生時代後期後半の吉野ヶ里地域では冬至を新年の指標としていたと推定しました。この日は、「王」により、一年のうちで最も重要な日影測定が実施されたと想像できます。また、大嘗祭前夜の鎮魂祭のように太陽の復活を祈って歌舞が行われたことや、東祭殿で儀礼が行われたことが想像できます。
また、収穫後からこの新年を迎える頃までに、周辺の各集落から租税としての物品が運び込まれ、そこで市が開かれたことも想像できます。

冬至から春を迎えるまでは、その年の豊作を祈って、また、様々な予祝の祭りが行われたと考えられます。

吉野ヶ里環壕集落における南のムラ

吉野ヶ里の「国の中心であった吉野ヶ里環壕集落は弥生時代のはじめ頃に丘陵の最南端に吉野ヶ里の発祥となる草分け集落が築かれ、次第にその規模を拡大していくとともに「クニ」の中心地として体裁を整えていき、弥生時代後期後半頃にその最盛期を迎えました。

その集落構造は、当時の中国から伝えられた暦や方位の概念に影響を受けた「北上位、南下位の軸線構造」「夏至の日の出、冬至の日の入りの方位)などといった概念のもとに、集落の最北端に吉野ヶ里の始祖神としての祖霊を祭る北墳丘墓、そして最南端には土地神(農耕神)などの精霊を祭る祭壇を置き、この南北の境界域に置いた祭祀施設が集落を形作る上での基本な軸線となっています。
この軸線上には「北内郭」があり、北墳丘墓や立柱と一体となり、吉野ヶ里の「クニ」の宋廟として「クニ」の祭祀が行なわれています。

さらに、吉野ヶ里では宗廟での「クニ」の祭祀が行われていると同時に、これらの祭祀を背景とした政治・行政的活動や経済的活動も行われています。

そのため、吉野ヶ里環壕集落内には、政治・行政的活動の中枢であると同時に支配者層の生活空間でもある「南内郭」、吉野ヶ里の「クニ」の経済の中心となり租税や収納や「国」をあげての市が開催される「倉と市」が置かれています。

このように、弥生都市吉野ヶ里では祭祀を背景とした支配者層による政治・行政・経済的な活動が行なわれており、それら支配者層の生活の基本を支えていたのが環壕集落の南端に住む「南のムラ」の人々でした。

祭壇

「南のムラ」の南部には基壇状に土を盛った祭壇があります。

この祭壇は現在の「南のムラ」が形成されるずっと以前の弥生時代中期前半頃に造られています。
造られる際にはそれ以前にここにあった竪穴住居が一気に埋められ築造されていますが、これは吉野ヶ里環壕集落の最北端のある北墳丘墓と時期、築造方法ともに共通しています。

しかし、この両者は造られた時期や方法は共通していますが、その性格は全く異なるものでした。

すなわち、北墳丘墓は吉野ヶ里環壕集落を築き上げた支配者たちの墓として作られていたのに対し、この祭壇は墓として用いられることはなかったのです。

この祭壇では弥生時代中期頃に盛んに祭祀が行われていましたが、弥生時代後期後半になると祭壇の周囲には2重の溝が掘られ、祭壇の存在がさらに強調されています。

祭壇の周りに溝が掘られた時期は「北内郭」や「南内郭」が完成し、吉野ヶ里環壕集落の機能が明確化する時期です。
さらには北墳丘墓とこの南祭壇とを結んだ線が、吉野ヶ里環壕集落の最も重要な軸線であることは先に述べた通りです。
弥生時代中期に支配層の墓として作られた北墳丘墓は、その後、吉野ヶ里の「クニ」の始祖王(祖霊)の眠る墓として崇められ、「クニ」の祭祀の対象となっていきました。

そして、この祭壇には吉野ヶ里環壕集落の土地神(精霊)(穀霊)が祀られ、豊作などを祈る対象とされました。西集落の中にはこの祭壇での祭壇を行なう際の供物を収めておく建物があり、また巫女たちのもとで祭祀を手伝う者もいました。

広場

「南のムラ」の北部には建物などが一切ない広大な広場があります。

ここは「南のムラ」の集落群と「南内郭」のほぼ中央に当たる空間であり、北墳丘墓と南祭壇を結んだ軸線上にある空間です。

さらには南祭壇の前面にあって「南内郭」から祭壇へ至る道ともなる空間です。

このように、この空間は政治・社会的、宗教・儀礼的空間、宗教的軸線と中央を意識した聖なる広場でした。この広場では季節ごとにさまざまな祭りが行なわれ、時には祭壇から精霊をつれて「南内郭」や「北内郭」へと行く際の通り道となりました。

また、この聖なる広場となっている部分は今の支配者層に連なる吉野ヶ里環壕集落の祖先たちがかつて暮らしていた集落の跡地でもありました。

集落

吉野ヶ里環壕集落の南端に位置する南のムラは、北内郭や南内郭に住む「大人」(支配者層)の暮らしを支える「下戸」(庶民)が暮らす場所でした。

当時、200人程度の「下戸」たちが暮らしていて、集落の両側を流れる田手川、貝川の周囲にあった水田、丘陵の緩斜面上にあった畑や果樹園での農作業を中心とした生活を送っていました。

ここで生産された作物は吉野ヶ里環壕集落の住人たちの食糧となっていました。
こういった食糧生産のほかに、生活に必要な様々なものを作る道具づくりや、両河川を通じて運ばれてくる様々な物資の荷揚げなどが行なわれていました。

また南のムラの人々は様々な生産活動のほかに、吉野ヶ里の支配者層の世話をするという大事な役割を担っていました。例えば、南内郭に住む支配者層の食事の世話をすることや、南のムラにある祭壇での祭祀を補助する役割がありました。そのため、南のムラには支配者層の食糧や道具類などを保管しておく大型の倉庫や、祭壇のそばの住居や倉庫がありました。

このように、南のムラの住人たちは水田や畑での農作業を中心としながら、農閑期や必要に応じた手工業生産、それから支配者層の世話をするという大変忙しい日々を送っていたのです。

南のムラには東西にある谷に沿った大規模2つの集落があって、そこには40数棟の竪穴住居と10数棟の高床倉庫がありました(現在復元されているのはそのうちの西側にある1つの集落の一部)。
これらは、竪穴住居3~4棟と高床倉庫1~2棟程度でまとまった単位を形成しており、そういったグループが10数個ありました。

このグループは一つの倉庫(財産)を共有する血縁関係をもった大家族であり、家長を中心とした生活を送り、農作業や手工業生産などの様々な作業も基本的にはこの単位で行っていました。

道具作り

南のムラでは農閑期の冬を中心に、生活に必要な様々な道具が作られていました。

農作業に必要な道具類をはじめ、食事に使う土器などの食器・調理具、また刃物などの工具類、衣服や敷物、縄や紐、こういった生活に必要な様々なものを農閑期を中心に製作していました。

「大人」たちはこういった日常の労働は行わないので、当然、「大人」が使うものも作らなくてはいけませんでした。

支配者層の世話やその他の労働

南のムラでは農作業や手工業によって自分たちの生活に必要な物資を生産しましたが、そういった物資によって吉野ヶ里の支配層である「大人」たちの生活も支えられていました。

こういった生産活動とは別に南のムラに住む「下戸」たちは「大人」の世話も行っていました。

一つは南内郭に住む「大人」たちの日々の食事を作る労働でした。南のムラには大型の倉庫があり、そこにはこの「大人」たちのための食糧などが保管されていて、毎日、ここから食糧を運び、南内郭にある煮炊屋で食事を作っていました。

もう一つには南のムラにある祭壇で行なわれる祭祀の世話をしていました。祭壇のそばには小さな竪穴住居があり、そこに住む「下戸」たちは祭祀が行われる時、巫女の手伝いをしていました。
また、南のムラに住む男たちの中には兵士として吉野ヶ里環壕集落の警護を行うものもいました。こういった生産活動以外の労働については、南のムラに住む「下戸」たちの中で、持ち回りでおこなっていました。

体験学習のご案内

南のムラの東側には弥生くらし館があり、土器復元作業を見学できる公開作業室や南のムラの成り立ちが映像や模型などで分かりやすく説明されているギャラリーや映像室および休憩室などがあります。
また、施設では「勾玉づくり」「土笛づくり」「火おこし」などの「ものづくり体験」を行うことができます。

弥生くらし館の画像
▲弥生くらし館(南のムラ内)