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吉野ヶ里遺跡とは

紀元前5世紀から紀元後3世紀までの弥生時代は、日本で稲作の文化が始まり、定住文化が根付いた日本の文化の原点ともいえる時代です。

弥生時代の遺跡の中でも吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の旧神埼(かんざき)町・旧三田川(みたがわ)町・旧東脊振(ひがしせふり)村の3つの町村にまたがった我が国最大の遺跡で、弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌や、弥生時代700年間の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっています。

これらは日本の様子を記した最古の記録である魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」の時代を彷彿とさせるもので国の特別史跡にも指定されています。

また、有柄銅剣やガラス製管玉等の出土品は国の重要文化財に指定されるなど、高い学術的価値を有するものです。

吉野ヶ里遺跡は、脊振山地南麓から平野部へ伸びた帯状の段丘に位置しています。
佐賀平野東部には段丘が多く発達し、そのいずれにも遺跡が多く立地していることが、古くから知られていました。
どのように吉野ヶ里遺跡の全貌が明らかになってきたのか、その経緯を紹介します。

昭和10年以前の吉野ヶ里遺跡の研究

北部九州の考古学研究は大正時代から活発化しますが、おびただしい数の青銅器を有する福岡地方が研究の中心となり、九州弥生文化の中心は福岡平野などの玄海灘沿岸地方であると認識されていました。
佐賀県では、大正時代後半から研究が始まり、甕棺や一般の弥生土器の存在が多い佐賀平野東部地域がその中心となり、昭和9年になると、吉野ヶ里遺跡を取り上げた報告が相次いで発表されました。
まず、七田忠志(※1)は、周辺の弥生時代遺跡や、そこから出土した人骨、貝製腕輪、銅鏡、銅戈鋳型の出土を報じ、佐賀平野にも注目するよう訴えました。甕棺を中心とした弥生時代~奈良時代遺跡の分布地図を掲載し、「脊振南麓一帯におびただしく散在する弥生式甕棺遺跡及び有明海周辺貝塚群と共に是非究明を要するものであり、併せて今後研究不十分なる肥前地方古代遺跡遺物の解明を諸先生に懇願する次第である」と述べています。
三友国五郎(※2)は佐賀平野東部の甕棺墓地や貝塚を紹介する中で、「佐賀平野は南方に肥沃する沖積平野があり、更に古代人にとって非常に食料を供給する海(有明海)を控え、しかも北方は脊振山塊が自然の防御線となり生命線となっているから、この脊振山麓は絶好の古代聚落地をなしたであろうと推定させられる」と延べ、吉野ヶ里遺跡について一項目を設け、特に甕棺の数量の多さなどについて詳しく報じ、埋置状況の図面を付して特徴について詳しく報告しました。

※1 神埼郡仁比村山出身、神埼高校教師の傍ら吉野ヶ里遺跡の存在とその重要性を指摘。大正1~昭和56没。
※2 埼玉県出身、元埼玉大学教授。専門は人文地理学で、先史時代~古代の集落立地に関する研究者として知られる。明治37~昭和58没。

昭和20年代以降の状況

戦後、佐賀県が考古学上大きく注目されるようになったのは、現在の公園の東口から約3km北側に位置する「三津永田遺跡」(図中吉野ヶ里地区)の調査でした。昭和27年末、段丘がみかん園として開墾されてことで、多くの甕棺が出土し、そのひとつから人骨とともに前漢時代の銅鏡連弧文昭明鏡が出土しました。翌28年に水害が発生し、護岸工事のために丘陵地から土が採られた際に、多数の甕棺とともに、管内から人骨と共に鉄器や貝製腕輪・ガラス製の玉などの貴重な遺物が出土しました。
このため、日本考古学協会が主体となって、翌29年7月までの間、緊急発掘調査を実施し、弥生時代前期から後期にかけて、この地方でも大陸との交流があったことが認識されました。
昭和40年代後半からは、大規模開発の増加に伴い、調査体制も次第に増強され、本格的な発掘調査が実施されるようになりました。吉野ヶ里遺跡の北東に位置する「二塚山遺跡」(図中横田地区)の発掘調査もその一つで、昭和50~51年、甕棺墓を主体とする弥生時代墓地が完掘され、多数の銅鏡や鉄製武器その他の副葬品・装身品など、三津永田遺跡と非常に類似した遺物が出土しました。
昭和55年には、現在公園の「倉と市」周辺部でも調査が実施されました。弥生時代後期の高床倉庫と考えられます堀立柱建物遺跡数棟や、さらに西方では、南北方向の自然の河川跡とも考えられるものが検出されています。段丘頂部では、弥生時代の甕棺墓群や竪穴建物跡とともに、18基の甕棺墓が整然と二列に並んでいることが確認されました。また、甕棺内から出土した人骨6体は、「三津永田遺跡」の人骨と同様に、北部九州・山口型の人骨であることが判明しました。
昭和56年から57年にかけて、佐賀県教育委員会により、圃場整備に伴う段丘裾部の水田部の調査が実施され、弥生時代中期の高床倉庫と考えられる掘立柱建物跡群や壕跡などが検出され、炭化米多数や竪杵などが出土しています。

昭和60・61年になると、筑後川から佐賀平野の東部を横断して、嘉瀬川に水を運ぶ佐賀東部導水路の建設に伴って、県教育委員会により段丘南部の調査が実施され、弥生時代~中世にかけての竪穴建物跡や建物柱穴、甕棺群と後期の壕跡などが検出されています。

吉野ヶ里の国を構成する村の図

神埼工業団地の開発計画

佐賀県は、『80年代佐賀県総合計画』を策定し、食料供給基地としての役割を果たしつつ、工業の進展をはかり、地域の活性化を目指すことを目標としました。
昭和56年6月に、「佐賀東部地区工業開発適地調査協議会」が設置され、工業団地の適地の検討がなされ、昭和57年2月に吉野ヶ里段丘一帯が最優先・有力候補地として内定しました。多くの埋蔵文化財が包蔵されていることが知られていましたが、その内容については不明な点が多く、文化財確認調査を行うこととし、調査結果を基に重要な文化財包蔵地は文化財保存緑地として計画に取り組むこととしました。

埋蔵文化財確認調査

昭和57年度に丘陵部、昭和61年度に水田部の調査をおこなった結果、埋蔵文化財が包蔵されていると確認された面積は約58.3ha判明しました。時期別の遺構の状況を簡単にまとめると以下の状況が判明しました。

旧石器時代 ナイフ形石器、台形石器、尖頭器が出土。包含層・遺構はほとんどのこっていない。
縄文時代 土器片が発見されていることより、遺構・遺物が存在する可能性がある。
弥生時代 前期から後期にかけての遺構・遺物が全地区で確認された。
前期では数軒の竪穴建物跡、甕棺墓を主体とする墓地、中期では竪穴建物群と甕棺墓群、後期では竪穴建物が確認された。
さらに、環壕を伴った大集落と甕棺墓を中心とする墓地群が予想される。
古墳時代 日吉神社付近に3基ほどの古墳状の高まりを確認。
6世紀の竪穴建物跡と全地区より須恵器、土師器などの遺物が出土しており段丘部や水田部の遺構が存在するものと考えられる。
古代 奈良時代の道路跡が確認され、周辺には当時の官衛的な性格をもった遺構・遺物が存在する可能性が高い。
中世 妙法寺跡推定地区で、溝・柱穴などの遺構や陶磁器などの遺物が確認された。
近世 志波屋四の坪地区北側で、墓地が確認された。
発掘調査前の吉野ヶ里遺跡の航空写真
▲発掘調査前(S61(1986))の吉野ヶ里遺跡
(『弥生時代の吉野ヶ里‐集落の誕生から終焉まで‐』佐賀県教育委員会編2008より)

確認調査結果に基づく調整

文化財の確認調査の結果、工業団地計画と文化財保護との調整が進められ、工業団地の規模は、当初計画では約80haでしたが、区域内の文化財保護について協議が重ねられたが、県として工業団地の必要性から、文化財包蔵地を最大限に緑地に取り組むことで、後に67.7haとして、レイアウトの変更がなされました。

埋蔵文化財包蔵地は36haとなり、うち6haを文化財保存緑地とし、30haについては記録保存ための発掘調査を実施して保護を図ることとしました。

発掘調査の準備

発掘調査面積が30haと確定した後、取り急いで本格調査の準備が進められました。調査期間はS61年度~63年度の3年間とし、その後の2年間で資料整理を行うとしました。実際に、調整を、開始できる状況になったのは、S61年5月下旬からとなりました。

調査区域の設定と調査の方法

約30haに及ぶ調査区を3年間で調査するにあたり、調査方法としては遺跡を覆っている表土等の堆積土を調査委員立ち会いの下で、バックフォーやブルドーザー・ダンプトラックを用いて除去・運搬を行いました。調査の過程や完全に発掘された遺構は写真に記録するとともに実測され、出土した遺物は水洗、注記、選別、接合復元を行い、実施図の作成などとともに整理・記録されました。

出典:『吉野ヶ里』佐賀県教育委員会,1994

吉野ヶ里遺跡関連年表

年代 日本 中国・朝鮮半島
時代 主な出来事 主な出来事
約1万2千年前 旧石器時代 ナイフ形石器などを使って人々が生活をしている。  
 
縄文時代 この頃、土器が作られ始める。  
紀元前8世紀   北部九州で水稲耕作が始まる。  
    丘陵南端周辺で集落が営まれ始める。  
紀元前3世紀 弥生時代前期 丘陵南部に環壕集落が形成される。  
紀元前2世紀   秦の始皇帝中国統一(前221年)
前漢成立(前202年)
衛氏朝鮮成立(前194年)
  この頃、北部九州では銅剣・銅矛・銅戈などが副葬されるようになる。
  弥生時代中期 丘陵各所に甕棺墓が多数列状に埋葬される。
紀元前1世紀 丘陵南部で青銅器の鋳造が行われる。
北墳丘墓が築造、有柄銅剣やガラス管玉等が副葬される。
漢武帝、朝鮮半島に4郡設置
(前108年)
南のムラ祭壇?が築造され、祭祀が行われる。
この頃、倭人は百余りの国に分かれ、漢の楽浪郡と交渉する。(漢書地理志)
 
紀元1世紀     王莽、新皇帝と称す。(8年)
貨泉の鋳造(14年)
後漢成立(25年)
弥生時代後期 外環壕が掘削され始め、大規模環壕集落が成立する
  倭奴国王、後漢に朝貢し、光武帝より印綬を賜る。
  (57年・後漢書東夷伝)  
    この頃、北部九州では甕棺墓が激減し、土坑墓・石棺墓が多くなる。  
2世紀   倭面土国王師升等、後漢に遣使する。(107年・後漢書東夷伝)  
    内壕が掘削され、南内郭が成立する。物見櫓が建てられる。  
    この頃、倭国乱れ、その後卑弥呼が共立される。(魏志倭人伝)  
    南内郭は掘り直され、新たに北内郭も成立する。大型建物が建てられる。  
3世紀     公孫子、帯方郡を置く。(204年)
後漢滅び、魏成立(220年)
魏、公孫子を滅ぼす。(238年)
     
    卑弥呼、魏に遣使する。(239年・魏志倭人伝)
  古墳時代 この頃、丘陵上に前方後方墳、方形周溝墓が営まれる。  
4世紀  
5世紀      
6世紀     隋中国統一(589年)
唐成立(618年)
7世紀    
8世紀 奈良時代 平城京に遷都。(710年)  
  この頃、官道が造営され、丘陵各所に堀立柱建物が多数建てられる。  
  平安時代 平安京に遷都。(794年)  
9世紀    

※太字は吉野ヶ里の出来事