吉野ヶ里の歴史
弥生時代は約700年間も続いた長い時代です。吉野ヶ里遺跡では、この長い弥生時代の全ての時期の遺構・遺物が発見されています。しかもそれぞれの時期の特徴をよく表しているものが見つかっており、この時代にどのように社会が変化していったかが分かる極めて学術的価値の高い遺跡です。
吉野ヶ里歴史公園では「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」を復元整備対象時期として、これまでの発掘調査成果や民族学などさまざまな専門分野の研究をもとに復元整備を行っています。
弥生時代前期(紀元前5~前2世紀)
弥生時代中期(紀元前2~紀元1世紀)
弥生時代後期(紀元1~3世紀)
吉野ヶ里集落の変遷
吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の前期~後期までを通じて、ムラからクニの中心集落-みやこ-へと発展していく過程が明らかになった遺跡です。
弥生時代前期の集落
弥生時代中期の集落
弥生時代後期の集落
弥生時代後期になると、集落は北方へと規模を拡大して、ついには40haを超す国内最大規模の環壕集落へと発展します。内部には物見櫓を備え、大型の祭殿をもつ首長の居住や祭祀の場と考えられる北内郭や、高い階層の人々の居住区と考えられる南内郭等、内環壕によって囲まれた空間が設けられ、西方には、吉野ヶ里のクニの物資を集積し、市の可能性もある高床倉庫群が設けられました。
環壕、城柵、物見櫓等の防御施設で堅固に守られた内部に多くの人々が集まり住み、その祭政の中枢である南内郭・北内郭が存在し、祭壇など祭祀の場を備え、青銅器や鉄器、木器、絹布や大麻布などの手工業生産や、各地の手工業産品や人々が集う交易の市が推定され、まさに弥生都市とも呼べるようなクニの中心集落へと発展した姿を見ることが出来ます。
吉野ヶ里歴史公園は、「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」を復元整備対象時期としています。大切な遺構を壊さず土で保護した上に、弥生時代後期後半に同時期に建てられていたと考えられる建物を、当時あった場所の真上に復元整備しており、この地が最も栄えたクニの姿を体感することができます。
- 『弥生時代の吉野ヶ里-集落の誕生から終焉まで-』
出典:佐賀県教育委員会編2008転載 - 吉野ヶ里遺跡では「環壕」の「壕」はさんずいの「濠」と区別して標記される。
これまでの調査から水が張られていた痕跡が認められないためである。
墓地
吉野ヶ里遺跡の最も古い墓は、弥生時代前期後半の土壙墓や木棺墓、甕棺墓などがありますが、中期になるとそれまで分散していた甕棺墓地が、600mに及ぶ長大な甕棺の列状埋葬墓として、大規模な墓地にまとまります。
それらは、主に中期の環壕集落の外側北方につくられ、現在の公園の古代の森ゾーンとなります。墓群のなかには、周囲より高い階層の人を葬ったと考えられる甕棺墓が存在します。
また、それらの墓地群とは別に、北内郭の北側に、細形銅剣やガラス管玉を副葬した甕棺墓群が埋められた大規模な北墳丘墓が営まれ、社会規制の強化や階層分化のありさまが伺えます。また、弥生時代後期以降の墳墓は、極端に減少し、特別な墳墓も確認されていません。
北墳丘墓は、温度と湿度を一定に管理しており、遺構を直接見ることが出来ます。
吉野ヶ里遺跡の終焉
3世紀中頃の弥生時代終末期になると、吉野ヶ里遺跡全体を取り囲む環壕は、ほぼ埋没し、北内郭、南内郭とともにその機能が失われてしまったと考えられています。それと前後して、南内郭付近の丘陵部には4基の前方後方墳が築かれます。吉野ヶ里丘陵の南部一帯は、人々の生活する集落から、人が葬られる埋葬の地へと変化したようです。
吉野ヶ里に集まって住んでいた人々は、どこに行ったのでしょうか?
弥生時代の終焉と共に、どこかへと移り住んでしまったのでしょうか?
弥生時代以外の様子
これまでの発掘調査から、弥生時代の前や、その後の時代の概要、出土遺物についてご紹介します。
旧石器時代
縄文時代
古墳時代
古墳時代に関しては、続口縁部や口頸部に波状文が施されていたり、内面に黒色塗料が付着していたり、外面に刷毛目調整がされている土器と、鞍橋の前輪と後輪部分であると考えられる木製馬鞍の大小2個体が出土しています。そのほか鉄器、石製玉類、その他石製品、土製品、木製品等があります。
奈良、平安時代
木簡が9点と、疑宝珠様つまみをもつ土器、人名・建物の名前・吉祥句と考えられる文字が記されている墨書・篦書土器、硯、水滴用の土器、絵画土器が出土しています。そのほか陶磁器、鉄製品、その他石製品、土製品、木製品等があります。
また、奈良時代には、駅路跡と、群衙などの官衙関係の諸施設と考えられる道路跡(官道)や多数の掘立柱建物群が検出されています。
中世
土壙墓群、道路状遺構、空堀、溝跡、輸入陶磁器、銅銭などが見つかっています。