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倉と市

倉と市~倉庫群、市も開かれていた~

倉1
倉2

海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品などが集まり、盛大な市が開かれたり、市で取引される品々が保管されていたと考えられる倉庫群などが集まった、吉野ヶ里を支える重要な場所であると考えられています。レンガなどに描かれた古代中国の市の様子とよく似た構造をしており、また当時の交易の重要な交通手段と考えられている「舟」が利用できる大きな川がすぐ近くを流れていたこと、さらにはこの地域全体が大きな壕で厳重に囲まれていることなどが、こうした考え方の基になっています。

西方倉庫群は平成11年度の調査で大きく四郡に分かれるさらに多くの高床倉庫群や竪穴建物が発見され、その配置などから、現在のところ具体的な遺構は指摘できませんが、「クニ」の倉、「廷閣」としての機能の他に『魏志』倭人伝にみえる「市」的な施設空間が存在した可能性があります。

倉と市の地図

生活用品取引の場

日常使う品物などが、周りのムラの人によって取引されていたと考えられています。

高級品取り引きの場

海外の国々や倭[わ]の他のクニグニの貴重な品物が取引されていた場所と考えられています。

管理者の住まい

クニの倉や市を管理、守衛する下戸[げこ]たちが暮らす住居と、暮らしに必要な物を収める倉庫があったと考えられています。

裁判などの場

生口[せいこう]と呼ばれる奴隷層の取引や、裁判などが行われていた場所と考えられています。

市の中心

市の中心

倉と市の中心的な建物である市楼と海外や国内のクニグニと取り引きされた物資などが収められている倉庫群があったと考えられています。また、市を管理する「市長[いちおさ]」と呼ばれる人の住居もここにあったようです。

祭りの場

祖先の霊に祈りを捧げる祠堂があり、その前ではいろいろな祭りが行われていたと考えられています。また一角では脱穀などの作業も行われていました。

クニの大倉

クニの軍事上、戦略上重要な物資を収められていた特別な場所と考えられています。そのため、大きな溝によって囲まれ、出入口は兵士によって厳重に守られていたと考えられています。

穀物の倉

南内郭から倉と市に向かう西門を入ったところにあります。入口を見張る櫓と、来年の種籾を収める倉庫などがあったと考えられています。

国内外との交易

交易

国内の他の地域や中国、朝鮮半島との交流、交易を示す遺物が数多く発見されており、「市」の存在を推定される遺構も南内郭西方倉庫群で発見されています。これは、「国」の成立と共に交易の場である市を「国」の中核的集落である環壕集落域に取り組み、交易を管理するようになった表れでしょう。国々に市があることについては『魏志』倭人伝の記述するところでもあります。市では交易のための旅(船出など)や、他からの交易品の到着に際しては、祭りが行われたと想定できます。また、「国」の告知、裁判、刑などの法的秩序を示すための行動が行われたことも推定できます。

貨泉

発掘された貨泉

中国の「新」の時代(A.D.8~23年)に作られた貨幣です。

鉄製の蝶番

発掘された鉄製の蝶番

精巧に作られており、中国製と考えられています。

鉄製品

発掘された鉄製品

当時の日本には、鉄そのものを作り出す技術はなかったと考えられており、朝鮮半島南岸などから鉄板などを輸入し、それを加工して製品化していたようです。

ガラス製管玉

発掘されたガラス製管玉

ガラス材料が、中国「長沙」のものです。

貝の腕輪

発掘された貝の腕輪

当時祭祀(さいし)に関係する人だけが身につけていたと考えられている貝の腕輪は、遠く沖縄周辺や南方の海でしかとれない「ゴホウラ貝」や「イモ貝」という貝で作られていることが分かっています。

ヒスイの勾玉

発掘されたヒスイの勾玉

ヒスイは当時とても貴重なもので、手に入れることが難しい物であったようです。日本では新潟県の糸魚川を始め数カ所でしか採取できなかったと考えられ、吉野ヶ里で見つかったヒスイの勾玉も、糸魚川産であることが分かっています。

西日本と中国付近の地図

発掘調査

倉と市(西方倉庫群)の辺りは、S63年度、H9年度、H11~12年度にわたり発掘調査が行われました。
弥生時代中期前半までは、貯蔵形態の主流は穴倉でしたが、弥生時代中期中頃を境に、堀立柱建物の高床倉庫へと変化することが、発掘調査の結果判明しました。
特に、「南のムラ」の辺りに存在した穴倉跡群は、中期後半のものはほとんど見あたらず、変わって、この「倉と市」のあたりで、高床倉庫群が確認されました。
弥生時代後期初頭~後期前半には、吉野ヶ里全体を囲む大規模な環境が設けられ、集落が大規模化する過程で、集落の中枢部が北側へと移動したのに伴い、高床倉庫を主体とした倉庫群も、後の南内郭の西方の外環壕の外部に移送した物と考えられます。
弥生時代後期後半~終末期には、南内郭の西側の外環壕の跡と、丘陵の裾の壕に囲まれた、南北約200m、東西150mの約3.5haの空間に、高床倉庫と考えられる堀立柱建物跡群が、少数の竪穴建物跡とともに存在していました。この期間には、2~3回の建て替えがあったと考えられ、同時に20数棟の高床倉庫と数棟の竪穴建物が建ち並んでいたものと考えられます。
中央部には、倉庫以外の機能をもった、9本柱、12本柱の大型の建物があり、倉庫群やこの空間を管理するような重要な建物の跡と考えられます。また、建物群の間には、広場と考えられる遺構空白地や、道路状の空間が存在していました。
この大規模な倉庫群は、吉野ヶ里集落のみならず、吉野ヶ里のクニ全体の物資を納めた大規模な倉庫群であり、かつ、市場の機能を持つ空間であったと考えられます。

倉庫群

多くの堀立柱建物跡が、広場を中心として南北に分かれるように分布しています。
環壕集落の出入り口に接する場所に位置し、多くの堀立柱建物群が存在しており、吉野ヶ里環壕集落の日常の生活に使用されたり、集落の備蓄用にされる稲が収蔵されたり、農耕に伴う祭祀が行われたり、また、市が開催されるゾーンであると考えられます。
外環と溝に挟まれた空間に、6基の大型の堀立柱建物跡が分布しています。
溝によってさらに区画され、倉庫群地域の中で最も奥まったエリアともいえる場所に、地区の中で最も大型の建物群が並んでいます。これらの様子から、武器、軍事上の糧食、播種用の稲など「クニ」で最も重要と考えられる物品が収蔵されている倉庫と想定しました。

櫓門

櫓門

配置の状況から、見張りと倉に南から入る通用口の門としての機能を持つ施設であると考えられます。

高床倉庫(武器の倉庫)

地区の入口に位置、古代中国では、都城の門や施設入口に、武器庫が設置されていたことから、武器庫であるとし、武器を展示しています。

高床倉庫(穀稲の倉庫)

高床倉庫(穀稲の倉庫)

武器庫に最も近い位置にあり、最重要の物資が収蔵されていたと考えられ、備蓄用の籾が保管されていた倉庫としました。

詰め所

詰め所

市の警備に当たる士卒達の詰め所と考え、床高を低くした建物としています。

市楼

市楼

2間×3間の建物で、中国の画像摶に描かれた市楼を参考に、重層で1階部分は壁を持ち、2階部分は吹き放しとしています。

市長の住居

市長の住居
▲上級管理者(市長)の住居を想定しています。

祠堂

祠堂

神の依り代となる祭りのための建物と想定し、神社の拝殿を参考に壁のない吹きはなしの建物としています。

集落の外部とつながる大外壕の出入り口に接する場所に、これを取り囲むように広場が存在しています。広い広場を持つため、市が営まれた場所であると考えられます。

小規模な堀立柱建物は兵士の倉庫、竪穴建物は市を管理した人々の住まいと考えられます。

兵士の倉庫

兵士の倉庫

兵士の住居

兵士の住居

広場

市として使用された空間であり、祭礼、裁判、葬儀などが行なわれ、周辺や遠方のクニからも人々が集う場所であると考えられます。

手工業産業

南内郭から青銅器の鋳型や鉄製品が発見されていることや貝川に接した現在の水田部から木製容器の未製品が出土していることから、青銅器や鉄器の生産、木製品の生産が行われていたことが確認できます。
また、貝紫の出土や絹布片が多く発見されていることから、絹織物や染色が行われていたことも推定できます。特に鉄製品は量、質とも優れています。最近では近畿地方を除く日本列島各地で鉄製品が発見されていますが、当時この地域を中心とした鉄製品の流通圏が存在した可能性があります。