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第一章 弥生時代の年代

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邪馬台国

九州説の概要

(魏志倭人伝の解釈)

魏志倭人伝の記述方法は伊都国までと伊都国から邪馬台国までは大きく異なっている。即ち、伊都国までは方位・距離・到着国名の順番だが、そこから先は方位・到着国名・距離の順番になっている。魏志倭人の伊都国の記述では、魏の使者は伊都国に常駐することになっており、ここから先へは実際には行っていない。これらのことから考えて、伊都国から邪馬台国への里数や日数は、伊都国を基点としていると解釈できる。南水行10日、陸行1月というのは伊都国からの日数である。更に、南水十日陸行一月というのは、水行すれば10日、陸を行けば1月という意味であり、陸行1月というのは倭人伝の伊都国から邪馬台国までの1500里と一致する。

「帯方郡より女王国にいたる距離は12000余里」と倭人伝に記されている。ここから、里数が確かな帯方郡から伊都国までの10500里を引くと、残りは1500里。伊都国は今の福岡県糸島市付近と考えられるため、ここから1500里と考えれば邪馬台国は北部九州である。

魏志倭人伝は奴国の副官を卑奴母離(ヒナモリ)と伝えているが、他の古代文献の語法との比較から「ヒナ」は中心・中心地という意味であると考えられる。ここから、ヒナモリは中心地の周辺を守るの意と解釈できる。ヒナモリが奴国にいたとすれば、中心である邪馬台国は奴国の周辺、すなわち北部九州のどこかにあったと推定できる。

以上のように、九州説は距離と日数について魏志倭人伝の記述の方法の違いなどから解釈を加えています。

(考古学的解釈)

考古学の遺構・遺物をめぐる解釈では、魏志倭人伝で卑弥呼が魏よりもらったとされる銅鏡100枚が主要な論点となっています。

卑弥呼が景初三年に魏からもらったとされる三角縁神獣鏡は、中国からは一枚も出土していない。これは、日本で作られた鏡であり魏の鏡ではない可能性が高い。

魏の鏡は、後漢の官営工房で作られてものである。これは魏が後漢の権威を継いだ存在であることを示すためであった。したがって魏の鏡は後漢の官営工房で製作された「後漢鏡」であり、卑弥呼が貰った鏡も後漢鏡であったはずである。前期古墳の鏡の 副葬の状況を見ても、後漢鏡は棺内に置かれ最も重要な鏡として扱われている。これに対して三角縁神獣鏡は棺外に置かれている。弥生時代後期以来、最も権威ある鏡であったのは後漢鏡であり三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない。

古事記など日本の古代文献に上位支配者(天皇など)が、服属した豪族に鏡を配ったという記述は無い。反対に服属した豪族が鏡を天皇に捧げ、服属の意を示したという場面は描かれている。三角縁神獣鏡は棺外から何十枚と副葬された状態で発見されることが多いが、これは服属した首長から古墳の被葬者である王に捧げられたものと解釈できる。このことから考えて、三角縁神獣鏡は当時、地域の首長クラスの支配者が持つことができた鏡であり、卑弥呼の鏡とは考えられない。

九州地方の3世紀後半の文化所産は貧弱になると言われてきたが、吉野ヶ里遺跡の発見でその定説は覆された。吉野ヶ里遺跡のような物見櫓や北内郭の主祭殿、倉庫群などを備えた大規模な環濠集落が3世紀後半の北部九州に存在することが確かめられた。

魏志倭人伝に描かれた邪馬台国の「望楼(物見櫓)」、「城柵」、「宮室」、「邸閣」などに相当する遺構がセットで発見されているのは、現在までのところ吉野ヶ里遺跡だけであり、近畿地方の遺跡からは発見されていない。

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