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第一章 弥生時代の年代

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魏志倭人伝

倭人は、帯方郡(*1)の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。もと百余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあり(*2)、現在では、魏またはその出先の帯方郡と外交や通行をしているのは三十国である(*3)。

(*1)古代に朝鮮半島に置かれた中国の郡県。後漢の末、建安年間(一九六~二一九)に、遼東太守の公孫康が、楽浪郡の南、今のソウル付近に帯方郡を分置したのがはじまり。二郡は魏にひきつがれ、三一三年、楽浪郡が高句麗によって、おなじころ帯方郡が韓族によってほろぼされるまで続いた。

写真:三国志 魏志 倭人伝

三国志 魏志 倭人伝

(*2)『前漢書』地理志に、楽浪郡の海中に倭人があって、一〇〇余国に分かれており、毎年来献していると記したのをうけついだもの。
(*3)この一〇〇余国ののちに、三〇国が、魏と外交関係をもつとのべたもので、前段の狗邪韓国と、対馬国から邪馬台国までを加えると九国、それに後段の斯馬国から奴国までの二一国で、あわせて三〇国となる。あるいは、この中の狗邪韓国を除き、女王国と戦っていた狗奴国を入れる説もある。

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帯方郡より倭に行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って水行(*4)し、韓の国々(*5)を経て、あるいは南へ、あるいは東へと進み、倭の北岸にある狗邪韓国(*6)に到着する。これまでが七千余里である。

(*4)「水行」は陸岸に沿って、海や川を航行すること。「渡海」と区別される。
(*5)三韓(馬韓、辰韓、弁韓)の中の諸国をいうが、ここではコースからみて、馬韓の国々をさしている。
(*6)弁辰(弁韓)一二国の一つ。洛東江口の金官加羅(金海)をさす。その後も、加羅(任那)諸国の要衝で、倭と韓の接点となった。

写真:三国志 魏志 倭人伝

三国志 魏志 倭人伝

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そこから、はじめて一海を渡ること千余里で、対馬国(*7)に到着する。その国の大官を卑狗、次官を卑奴母離(*8)という。居るところは絶島で、広さ四百余里平方ばかり、その土地は、山は険しく、深林が多く、道路は獣のふみわけ道のようである。千余戸があり、良田はなく、住民は海産物を食べて自活し、船にのり南や北と交易して暮らしている。

(*7)現在の対馬(長崎県上県郡・下県郡)。
(*8)ヒコ(彦)、ヒナモリ(夷守)のことであろう。

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それからまた南に一海を渡ること千余里で一支国(*9)に到着する。この海は瀚海と名づけられる。この国の大官もまた卑狗、次官は卑奴母離という。広さ三百里平方ばかり、竹木・叢林が多く、三千ばかりの家がある。ここはやや田地があるが、水田を耕しても食料には足らず、やはり南や北と交易して暮らしている。

(*9)現在の壱岐(長崎県壱岐郡)。

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また一海を渡ること千余里で、末盧国(*10)に到着する。四千余戸があり、山裾や海浜にそうて住んでいる。草木が繁り、道を行くのに前の人は見えない位である。人々は魚や鰒を捕まえるのが得意で、海中に深浅となり潜り、これらを取って業としている。

(*10)現在の松浦(佐賀県東松浦郡・唐津市)。

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そこから東南に陸行すること五百里で、伊都国(*11)に到着する。長官を爾支(*12)、次官を泄謨觚・柄渠觚(*13)という。千余戸(*14)がある。代々王がいたが(*15)、かれらは皆、女王国に服属しており、帯方郡からの使者が倭と往来するとき、つねに駐るところである。

(*11)現在の糸島(福岡県糸島市)。かつては、怡土郡と志摩郡に分かれていたので、そのうちの怡土郡にあたる。
(*12)イナギ(稲置・伊尼冀)・ヌシ(主)などとよまれるが不詳。
(*13)シマコ(島子)・イモコ(妹子)、ヒココ(彦子)などとよまれるが不詳。
(*14)『魏略』では「戸万余」とあり、千は万の誤りか。
(*15)『後漢書』では三〇国のすべてについて「国皆王を称し、世々統を伝う」とし、これに対し「大倭王は邪馬台国に居る」としている。

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これから先は、東南、奴国(*16)にいたるのに百里。長官を馬觚(*17)、次官を卑奴母離という、二万余戸がある。

(*16)現在の那津、つまり博多津(福岡市)。
(*17) シマコ(島子)かどうか不詳。

おなじく東、不弥国(*18)に至るのに百里。長官を多模(*19)、次官を卑奴母離という。千余家がある。。

(*18)現在の宇美(福岡県粕屋郡宇美)にあて、宗像(福岡県宗像市)あたりまでふくむとの説もある。
(*19)タマ(玉)・トモ(伴)などとされるが不明。

写真:三国志 魏志 倭人伝

三国志 魏志 倭人伝

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また南、投馬国(*20)に至るのに水行二十日。長官を弥弥(*21)、次官を弥弥那利(*22)という。五万余戸ばかりがある。

(*20)九州説では、殺馬・設馬の誤りで、薩摩(鹿児島県)をさすとし、また日向児湯郡妻(宮崎県西都市妻町)、筑後上妻・下妻(福岡県八女市の大部分、久留米市の一部、筑後市の大部分、みやま市の一部、広川町)、筑後水沼(福岡県久留米市三瀦町)などにあて、大和説では、周防佐姿郡玉祖郷(山口県防府市)、備後鞆津(広島県福山市)、出雲(島根県東部)、但馬(兵庫県北部)などにあてるが、何れのばあいも地名比定は不確定である。
(*21)(*22)ミミ(耳)・ミミ(御身)、ミミナリ(耳成)・ミミタリ(耳垂)などとよまれるが、未詳。「耳」は記紀や風土記によれば、耳垂、大耳、垂耳など九州に多い人名である。

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また南、邪馬台国(*23)に至るのに水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところで、長官を伊支馬(*24)、次官以下を弥馬升・弥馬獲支・奴佳(*25)という。七万余戸ばかりがある(*26)。

(*23)現在にのこる版本でもっとも古い南宋の紹興年間(一一三一~六二)の「紹興本」、紹煕本年間{一一九〇~九四}の「紹煕本」には、邪馬臺国ではなく、邪馬壹国となっているから、ヤマタイでなく、ヤマイであるとの説もあるが、そうとは断定できない。やはり、この文字はヤマトの表音漢字であろう。ヤマトを、九州説では、筑後山門(福岡県柳川市、みやま市)の地名にあて、旧八女郡をふくむ一帯にあてるのが多く、ついで、肥後菊池郡山門郷(熊本県菊池市・菊陽町)とするものもあり、最近では九州の何処でも該当するような説が多くなってきた。大和説はもちろん大和(奈良県)にあてている。邪馬台国問題は、このようなアプローチからでは決まらない。
(*24)イキメ(活目)・イコマ(伊古麻・生駒)などにあてるが不詳。
(*25)ミマツ(観松)、ミマワケ(御間別)、ナカト(中跡)・ナカトミ(中臣)などにあてるが不詳。ただし獲支は少なくともワケ(別)とするのが妥当。
(*26)これまでの狗邪韓国~伊都国と奴国~邪馬台国の二つのグループでは、方位と里程(日程)の書き方が違う。前者は何国からどの方位で何里行けば何国に到着すると実際の旅程に従った累積的な書き方をしている。後者は何国から何国にいたるにはどの方位で何里としていて、これは伊都国を中心に放射線状に読み取ったものである。つまり、魏使は原則として伊都国より先は行かなかったし、投馬国より邪馬台国の方が北に位置することになり、九州圏内にあるとする、榎一雄氏の説がある。

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このように、女王国より北の諸国は、その戸数と道里をほぼ記載することができるが、その他の周辺の国は、遠くへだたり、詳しく知りえない。そこで、それらを列挙すると、斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国で、ここまでで女王国の境界はつきる(*27)。

(*27)九州説と大和説では、この二一国の地名の比定が異なるのは当然で、九州説では九州内部、大和説では、九州から機内・東海にわたっているが、地名の比定はあまりあてにならない。

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そしてその南にあるのが狗奴国(*28)で、男子を王とし、長官に狗古智卑狗(*29)がある。この国は女王国に服従していない。

(*28)クマソ(熊襲)、つまりクマ=球磨(熊本県球磨郡)とソ=襲・囎唹(鹿児島県會於郡)の地域にあてるのが一般であるが、大和説の中には、ケヌ=毛野(北関東)、クマノ=熊野(和歌山県南部)にあてるものもある。
(*29)ククチヒコ(菊池彦)で、肥後菊池(熊本県菊池郡)をあらわす称号とみるものが多い。

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帯方国より女王国までを総計とすると一万二千余里となる。
倭では、男子は成人も子供もみな顔や体に入墨をしている。昔から倭の使が中国に来るとき、みな大夫(*30)と称する。夏王朝の六代の王小康(*31)の子が、会稽郡(*32)に封ぜられたとき、断髪して入墨し、海中にひそむ蛟龍(みずち)の害を避けたという。今、倭の水人は海中に潜って魚や蛤を捕え、体に入墨して大魚や水鳥から身を守ってきたが、後にはやや飾りとなった。倭の諸国の体の入墨は、国々によって左右や大小などにちがいがあり、身分の尊卑によっても異なる。

(*30)中国では一般に卿・大夫・士の順に記し、国内の諸王・諸侯の大臣の身分。ただ漢でいえば、二〇等爵のうち、第五級の「大夫」から、第九級の「五大夫」までがこれにあたり、幅がある。倭の使者はみな大夫を称していたという。
(*31)中国最初の王国、夏・殷(商)・周の順となる。夏は四〇年間中絶ののち、相の子康にいたって中興。在位二〇年と伝えられる。
(*32)現在の浙江省から江蘇省にかけての郡名。

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帯方郡からの道里を計算すると、倭は会稽郡や東冶縣(*33)の東にあることになろう。

(*33) 現在の福建省福州の近くの県名。

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倭の風俗は折目正しくきちんとしており、男子はみな冠をかぶらず、木綿の布で頭をまき、衣は幅広い布をただ結び束ねるだけで、繕うことはない。婦人はお下げや髷を結ったりして、衣は単衣のようにし、真中に穴をあけて頭を通して着るだけである。人々は稲、苧麻(からむし)をうえ、桑・蚕を育て紡績し、上質の布・ ・真綿などを産出する。その地に、牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。兵器には、矛・楯・木弓を用い。木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢には、鉄鏃や骨鏃を用いる。要するに、これらの産物や風俗などをみると、憺耳、朱崖(*34)と同じである。

写真:三国志 魏志 倭人伝

三国志 魏志 倭人伝

(*34) 現在の広東省憺県・瓊山県の近くの地名。ともに海南島にある。

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倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる。人々ははだしで生活し、家屋を立てるが、父母兄弟はそれぞれに居所を異にしている。朱・丹を体に塗るのは、中国で白粉を用いるようなものだ。飲食には高杯を用い、手づかみで食べる。死ぬと棺に納めるが、槨(*35)は作らず、土を盛り上げて冢をつくる。死んだとき、さしあたって十余日は喪に服し、その間は肉を食べず、喪主は声をあげて泣き、他人はその周りで歌舞・飲酒する。埋葬すると、一家をあげて、水中でみそぎをし、中国で一周忌に練絹を着て沐浴するのとおなじようにする。

(*35)遺骸をおさめた棺を覆う施設で、木・土(つちへんに)・石・粘土・礫などの槨がある。

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倭人が海を渡って中国に来るには、つねに一人は頭をくしけずらず、しらみも取らせず、衣服は汚れたままとし、肉を食べず、婦人を近づけず、あたかも喪に服している人のようにさせて、これを持衰(*36)と名づける。もし、航海が無事にゆければ、かれに生口・財物を与え、もし船内に病人が出たり、暴風雨に会ったりすれば、これを殺そうとする。つまり持衰が禁忌を怠ったからだというのである。

(*36)衰は喪服のことで、喪服をつけたのと同じ状態の人をさし、災害を避ける祈りを行う人のことであろう。のちの遣唐使にも、対馬・壱岐の卜部がかならず乗船していた。

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倭の地には、真珠・青玉を産する。山には丹が出る。樹木としては、木冉{木に冉}(たん)・杼(とち)・豫樟(くすのき)・(ぼけ)・櫪(くぬぎ)・投(すぎ)・橿(かし)・烏号(やまぐわ)・楓香(かえで)があり、竹には、篠(ささ)・(やたけ)・排支(かづらだけ)があり、また薑(しょうが)・橘(たちばな)・椒(さんしょ)・襄荷(みょうが)もあるが、滋味ある食物として利用することは知らない。また猴(おおざる)・黒雉(きじ)もいる。 その通俗の行事や旅行にさいして、何かしようとすれば、骨を灼いて吉凶を占い、まず占うところを告げ、その解釈は中国の亀卜の法のように、火で焼けたひびわれをみて兆しを占うのである(*37)。

(*37)わが古代でも、亀卜の甲にマチ(町)といわれる角形の穴をほりこみ、甲の表面を薄くのこし、この部分をハハカ(葉若木)に点じた火で灼き、火圻(ひびわれ)を生ぜしめ、サマシ竹(兆竹)で水を注ぎ、固定し、墨をすりつけ清紙でふきとり、火圻をはっきりさせて判読した。対馬・壱岐・伊豆の卜部の風習である。

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その集会や居住の坐位には、父子男女の区別はなく、人々は性来酒が好きである。支配身分の人に尊敬を示す作法は、ただ拍手をして、中国の跪拝の礼にあてているようだ。人の寿命は、あるいは百年、あるいは八~九十年で、その習俗は支配身分の者はみな四、五人の妻をもち、一般の村民でも二、三人の妻をもっている。婦人は淫らでなく、嫉妬もしないし、盗みもなく、争いごとも少ない。法を犯せば、軽いものは妻子を没官され、重いものは家族と一族が殺される。身分の上下の秩序はよく守られ、十分に臣服している。租税、賦役を収め、そのための建物(倉)がたてられ、国々には物資を交易する市があり、大倭(*38)に命じて、これを監督させている。

写真:三国志 魏志 倭人伝

三国志 魏志 倭人伝

(*38)倭人中の大人。この部分を「便ち大倭のこれを監するに、女王国より以北に一大率を置き・・・」と続けて読み、大倭を邪馬台国の上位にある大和朝廷であり、一大率も朝廷がおいたとする説があるが、これは無理。かりにそう読んでも『後漢書』では「大倭王は邪馬台国に居る」と記している。

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女王国より北には、とくに一大率(*39)をおいて諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。一大率はつねに伊都国におかれるが、これは中国の州の刺史(*40)のようだ。女王が使を遣わして、洛陽や帯方郡からの使が倭に来たばあい、何れも伊都国の港頭で臨検し、文章や賜物を調べ、女王のもとに届けるものが、これと違わないようにした。
身分の低い一般の村民が、支配身分のものと道で出会うと、あとずさりして路傍の草むらに入り、これに辞を伝え、また事を説明するには、蹲ったり、跪いたりして、両手を地につけ、尊敬の意をあらわす。そのときの受け答えの声を噫というが、中国でいえば承諾の意味と同じことだ。

(*39)後世の太宰府の長官であるソチ=帥(率)とおなじ性格のものだが、もちろん直接に結びつくものではない。
(*40)前漢より各州に置き郡太守以下の地方官を監察した。後漢より州に治所を有し、民政にかかわり、兵権をももつようになった。

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その国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので(*41)、諸国は共に一女子を立てて王とした。これを卑弥呼(*42)という。彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。王となってから、彼女を見たものは少なく、婢千人をその身辺に侍らせ、ただ一人の男子が飲食を給し、女王の言葉を伝えるのに居処に出入りした。宮殿・物見櫓・城柵などは厳重に設けられ、つねに兵器をもった人々がこれを守衛していた。

(*41)この倭の乱は、『後漢書』倭伝には、恒帝(一四七~一六七)と霊帝(一六八~一八九)の時代のこととする。 (*42)ヒミコ(日御子)でなく、ヒメコ(姫子)の音を写したものであろう。古代音で日弥と記すときは、姫のばあいに限って弥をメとよむからである。

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女王国の東、海を渡ること千余里で、また国々があり、これからもすべて倭種の国である。また侏儒国はその南にあり、人々の身長は三、四尺で、女王国と四千余里離れている。また裸国・黒歯国はその東南にあり、舟行一年で到着できるという。
これらを含めて倭地の様子を尋ねると、海中の島々の上にはなればなれに住んでおり、あるいは離れ、あるいは連なりながら、それらを経めぐれば、五千余里にもなるだろう。

写真:三国志 魏志 倭人伝

三国志 魏志 倭人伝

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景初二年六月(*43)、倭の女王は大夫難升米を帯方郡に遣わし、魏の天子に朝献したいと請求した。帯方太守(*44)夏は、役人を遣わし、これを引率して洛陽に至らしめた。その年の十二月、魏の明帝は詔して、倭の女王に次のように述べた。「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方郡大守夏が使を遣わし、汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り、汝の献じた男の生口(*45)四人、女の生口六人、班布二匹二丈を奉り、わがもとに至った。汝の国ははるか遠いのに、使を遣わし朝貢したのは、汝のわれに対する忠孝の現われで、感心なことである。今、汝を親魏倭王(*46)に任じ、金印・紫綬(*47)を与えることにし、それを包装して帯方太守に託して、汝に授けることとした。汝は倭人を綏撫しわれに孝順をなせ。汝の使者難升米と牛利は、遠くからはるばる労して来朝したので、難升米を率善中郎将(*48)、牛利を率善校尉(*49)に任じ、共に銀印・青綬を授けることとし、引見し賜物してこれを送り返す。今、絳地交龍錦五匹(*50)・絳地粟ケイ十張(*51)・セン{くさかんむりに[倩]}絳五十匹(*52)・紺青五十匹(*53)を汝の国信物にたいする回賜として与え、またとくに、汝に紺地句文錦三匹(*54)・細班華五張(*55)・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚(*56)・真珠・鉛丹(*57)各々五十斤を与えよう。
これらの品物は、みな包装して難升米と牛利に託するので、かれらが帰国したら、簿録(物品目録)と品物を照合して受取り、悉く汝の国の人々に示し、魏が汝を大切に思っていることを知らせなさい。よって鄭重に、汝の好物を与えるのである。」と。

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(*43)魏の明帝の年号。景初三年(二三九)の誤り。『日本書紀』神功三九条にひく『三国志』や、『梁書』倭国伝には、景初三年のこととしている。魏は、景初二年(二三八)、兵を送り、遼東太守公孫渕をほろぼし、楽浪・帯方を接収した。その翌年(二〇九)、直ち卑弥呼は魏の帯方郡に使者を送ったとみねばならない。
(*44)州の下にある郡の長官。
(*45)生身の人間という意味。君主間の贈与に用いられたのは、奴婢・捕虜もある。捕虜は、殺虜にたいして、生口とよばれた。また、後には異人種と思われた蝦夷や隼人が贈られたこともあって、さまざまである。
(*46)魏の皇帝から贈られた爵号。魏の外臣として、冊封体制下に組みこまれたことを証拠だてるが、その地位は、西方民族の大国大月氏王が、「親魏大月氏王」を授けられたのと同等で、外臣の爵号としては最高に属するとの説があるが、ともに魏の僻遠に位置する外客臣程度であるため優遇されたとも考えられる。
(*47)綬(じゅ)は印を佩びるために、鈕(つまみ)につけた絹のくみひも。その色によって印の格式をあらわす。紫綬は最高。
(*48)(*49)倭の使者に与えられたこの爵号はともに比二〇〇〇石、官秩は郡守に比せられる高い地位である。もともと皇帝の任命する中郎将は、漢代では内臣の武官しかなく、魏がはじめて外臣の倭と韓の首長を中郎将に任じた。ことに倭に対しては、大夫難升米のほか、大夫掖邪狗ら八人にも、おなじ称号を与えたのは、大夫という比較的低い地位の使者に、高い爵号をあたえ、倭を重んじたとする説もある。いずれにしてもかれらを、親魏倭王のもとに配属したことになる。
(*50)深紅の地に、二匹の龍または蛟龍(みずち)の文様を織り出した錦。
(*51)深紅の地に、細密な添毛の小紋を織り出した毛織物。
(*52) 茜(あかね)に染め上げた平織の帛(うすぎぬ)。
(*53) 濃い藍色に染め上げた平織の帛。
(*54)紺地に曲線文を織り出した錦。
(*55)細密のまだらの華文を織り出した毛織物。
(*56)この銅鏡はセットとして、倭女王に贈られたもので、魏晋鏡といわれている三角縁神獣鏡であり、この三角縁神獣鏡の出土状況から、京都府相楽郡大塚山古墳を中心に、各地の豪族に配布・下賜されたものと推定する小林行雄氏の説がある。当然、大和説に属する。ただし、この部分は、表文(国書)にともなう国信物(回賜)のほかに、これに付属する別貢物として位置づけられ、いわば特産品で倭王以下首長層がもっとも入手を欲した「好物」にあたり、後の外交例では「念物」とも記される。したがって、別貢物は交易品とも共通する。
(*57)酸化鉛の赤色顔料、上の真珠も真朱ならば水銀朱。

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正始元年(*58)、帯方太守弓遵は、建中校尉梯儁らをつかわし、この詔書と印綬をもって倭国に行かせた。使者は、魏の小帝の使者という立場で、倭王に謁し、詔書をもたらし、賜物としての金帛・錦・刀・鏡・采物を贈った。倭王はこれに対し、使者に託して魏の皇帝に上表文をおくり、魏帝の詔と賜物に答礼の謝辞をのべた。
(*58)魏の小帝の年号(二四〇)。

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同四年、倭王はふたたび大夫伊声耆・掖邪狗ら八人をつかわし、生口・倭錦・絳青縑(*59)・緜衣(*60)・帛布・丹・木𤝔 ・短弓矢を献上した。掖邪狗らは、率善中郎将の印綬を授けられた。同六年、少帝は詔して、倭の使者の難升米に、黄色の軍旗をあたえることにし、帯方郡に託して、これを授けさせた(*61)。

写真:三国志 魏志 倭人伝

三国志 魏志 倭人伝

(*59)赤と青の経糸(たていと)と緯糸(よこいと)で織り出した縑(かとりきぬ)。
(*60)真綿を入れた刺子(さしこ)の衣。
(*61)黄色の軍旗、つまり黄幢とは、倭の大夫を率善中郎将に任じたので、その中郎将の旗として与えたのだとする説と、魏帝の徳は、五行思想によると土徳だから黄色であるためとする説がある。またこれを倭王に与えたのは、狗奴国との戦いに、魏帝が卑弥呼に加担したからだとする説と、そうではなくもともとは魏が帯方郡と倭に、南北から韓族を抑制させるために、倭王に与えたのだとする説がある。

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同八年、帯方郡の太守王があらたに任官された。倭の女王卑弥呼はもともと狗邪国の男王卑弥弓呼(*62)と不和で、倭の載欺烏越らを帯方郡につかわし、互いに戦っている状況を報告した。そこで太守は塞曹掾史張政(*63)をつかわし、先の詔書と黄色の軍旗をもって行かせ、難升米に授けて檄文をつくって卑弥呼に教えさとした。

(*62)ヒコミコ(卑弓弥呼)の誤りで、彦尊の略称であるとし、男性であるから、ヒミコ・ヒメコ(卑弥呼)に対称したのだとする説が有力である。
(*63)郡太守のもとの属官

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その後、卑弥呼が死んだ。多いに冢を作りその径は百余歩(*64)、殉葬された奴婢は百余人であった。倭では女王の死後男王を立てたが、国中が服従せず、互いに殺し合い、このとき千余人が殺されたという。そこでまた卑弥呼の宗女である年十三の壹与(*65)を立てて王とし、国中がようやく治まった。張政らは、檄文をもって、壹与を教えさとした。壹与は倭の大夫善中郎将の掖邪狗ら二十人をつかわし、張政らの帰国を送らせた。よってかれらは魏の朝廷にいたり、男女の生口三十人を献じ、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雜錦二十匹を貢進した。

(*64)卑弥呼のとき、すでに古墳時代に入っていたかどうかが大問題。ただし、最近では弥生時代の墳丘墓がひろく確認されるにいたった。一歩は六尺、魏の一尺は約七寸九分とすると、一歩は一・五メートル。一〇〇余歩とあるから一五〇メートル前後の封土をもっていたことになる。ただし最近では、古墳の成立を三世紀半ばまで遡らせる学説がある。
(*65)『北史』には「正始中(二四〇~四八)卑弥呼死す」とある。『梁書』『北史』『翰苑』などでは、壹与ではなく臺与とあって、イヨでなくトヨだとも考えられる。これは邪馬壹国と邪馬臺国の問題とも共通する。

現代語訳 平野邦雄

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