弥生人の声が聞こえる
 吉野ヶ里歴史公園

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吉野ヶ里遺跡の紹介

歴史編

Q. 遺跡が見つかったきっかけは?

A. 研究者の中では、古くからこの地に貴重な遺跡が眠っていることは知られていました。昭和61年から始まった工業団地開発にともなう発掘調査で、吉野ヶ里が学術的価値の高い遺跡であることが確認されたのです。

工業団地開発に伴う発掘調査により、約40ha以上という国内有数の大規模な環壕集落跡であることがわかりました。また、弥生時代(紀元前3世紀から紀元3世紀頃)の約600年間にわたり、小さな「ムラ」が大陸の文化を取り入れ、やがて「クニ」の中心集落へと発展していく過程が分かる極めて学術的価値の高い遺跡であることが確認されました。

Q. 吉野ヶ里は邪馬台国だったの?

A. 吉野ヶ里が邪馬台国だったという証拠は見つかっていません。ただ、魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子とそっくりな建物跡などが見つかっており、復元された建物等を通して、邪馬台国の様子を感じることはできる、という意味では、邪馬台国のイメージに近い遺跡だということは言えるでしょう。

物見やぐら跡や高床倉庫と考えられる建物跡、幾重にも巡らされた大小の環壕跡など、魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子を彷彿とさせる遺跡が見つかっていますが、邪馬台国であるかは不明です。

Q. 弥生時代以降の吉野ヶ里はどうなるの?

A. 3世紀の終わりから4世紀の始め頃、吉野ヶ里の集落は突然途絶えてしまいます。理由については様々な意見がありますが、

  • 吉野ヶ里集落の周りにある小さな集落は、その後も残っている
  • 環壕の中に、生活土器などを捨てて出ていっている

などから自分たちの意思でこの地を後にしたのかも知れません。古墳時代は、個人が大きな権力と富を持つ時代になりますが、こうした社会の流れの中で、吉野ヶ里の人々も住む場所を変えていったのかも知れません。

弥生時代の後の古墳時代には、個人が絶大な権力と富を持つ時代になりますが、こうした社会の流れの中で、吉野ヶ里の人々も住む場所を変えていった、と考える方いいようです。
古墳時代には、南内郭及びその南方に「前方後方墳」が作られ、集落としての拠点がなくなることだけは、はっきりしています。
その後奈良時代になると、墳丘墓の北側に、大宰府から肥前国庁(国府)へとつながる官道(当時の国道)が整備され、その道筋に駅家(うまや=馬を乗り継ぐ場所)や当時の役所なども整備されます。
さらに平安時代には、神埼周辺が「神埼荘」として整備され、日宋貿易の拠点としての港も整備されます。そこには、歴史上有名な平清盛の父親である平忠盛が役人として赴任し、日宋貿易を私物化して多額の利益を得ていたことなどが、文献資料にはっきりと書かれています。
弥生時代に限らず、こうした古代から中世にかけて、日本の歴史の中で重要な役割を果たしてきた土地であるいうことができます。

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