弥生人の声が聞こえる
 吉野ヶ里歴史公園

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吉野ヶ里遺跡の紹介

くらし・生活編

Q. お風呂やトイレはあったの?

A. 吉野ヶ里遺跡からは、トイレの跡は見つかっていません。他の遺跡では、環壕の中から人だけにしか見られない寄生虫が見つかった例もありますので、まとめて環壕に捨てていたのかも知れませんね。風呂については、まだこの時代にはありませんでしたので、かわりに川で水浴びをしていたと考えられます。

水浴び

▲水浴び

Q. 服はどんなものを着ていたの?

A. 魏志倭人伝には、男は布を身体に巻き付けただけ(横幅衣[よこはばい])、女は布の真ん中に穴をあけ、すっぽりと首からかぶったもの(貫頭衣[かんとうい])を着ていると書かれています。吉野ヶ里遺跡では、甕棺の中から麻や絹の布片が見つかっています。当時は、身分によって服の素材や形が違っていたようです。

上層の衣装

▲上層の衣装

一般の衣装

▲一般の衣装

各地の遺跡から出土している織機から弥生時代の織布の幅は30㎝前後であることから、一幅で身幅を覆うことが出来る布幅を持ちその中央に穴をあけて頭を通じて着用するという貫頭衣は製作することが難しかったと考えられます。これらのことから、2枚の布を頭と腕の出る部分を残して脇で綴り合わせた形態の服ではなかったかと想像できます。
また、倭人伝には人々ははだしであると記述されていましたが、吉野ヶ里遺跡や福岡県の那珂久平遺跡で板を浅くえぐった木製の履物と考えられる遺物が出土しており、沓が存在していたことも明らかになっています。

Q. 文字や言葉は使っていたの?

A. 文字については、現在まではっきりとしたものは確認されていません。また言葉についてもほとんど分かっていません。ただ魏志倭人伝には、魏の国との交渉・交流において、「文章を交わした」「通訳がいる」などの記述があることから、文字や言葉も存在していたということだけは間違いないようです。なお、当時は同じ日本の中でも言葉が通じない地域があり、現在の日本語のように全国共通のものではなかったようです。

Q. 石包丁はどうやって使うの?

A. 石包丁は、稲の穂先だけを摘み取る専用の道具と考えられています。魚や肉は切ったりはしなかった証拠として、刃の部分を調べてみると、稲に含まれる脂肪分だけしか確認されないことがあげられます。石包丁は、手のひらで包み込むようにして持ち、稲穂を1本ずつ摘み取っていきます。当時の稲はまだ野生に近い状況で、実る時期が現在の米のように一定ではなかったため、実ったものから順々に刈り取っていたようです。そのため、根元から刈り取る鎌ではなく、実った穂を1本ずつ摘み取る道具が必要だったのでしょう。

石包丁

▲石包丁

弥生時代の生業の中心は稲作を中心とした農業です。各地の遺跡から様々な農具が出土しています。
弥生時代の農具は「土を耕す道具(鋤・鍬等)」、「収穫する道具(石包丁、鎌等)」、「脱穀する道具(臼・竪杵等)」に大きく分けられ、既に現在にまでつながる基本的な農具がほぼ全て揃っていたことが知られています。
弥生時代の前期には鋤や鍬も刃先まで木製でしたが、中期以降、先端に鉄の刃先を装着するものが出現します。収穫具も中期後半から後期になると石包丁など穂先を摘み取って収穫するものから、根元を刈る鎌に変化していったことが明らかになっています。

Q. 寿命はどれくらいだったの?

A. 現在と比べると、ずいぶん短かったようです。平均すると、40歳まで生きられなかったと考えられています。当時は、栄養状態も良くなく、病院などもありませんので、子供の死亡率が特に高かったようです。吉野ヶ里の甕棺の4割が子供用であることからも、こうしたことが推測されます。

Q. 吉野ケ里の人口はどれくらいだったの?

A. 当時の人口を調べることはとても難しいことです。基本的には、お墓の数や住居の数などから推察していきますが、当時の燃料が薪だったことを考えると、周辺の森林の伐採等による環境のことも考えなくてはいけません。また、当時の人々が1 日どれくらいの食物を食べていたのか、それを満たす食糧の確保が可能だったのか、など、考えなくてはならないことはたくさんあります。吉野ヶ里では、こうした様々なことについても調査研究を行い、現時点で最盛期には、外環壕の内部におよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では、5,400人くらいの人々が住んでいたのではないかと考えられています。

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