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 吉野ヶ里歴史公園

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吉野ヶ里遺跡の紹介

昭和20年代以降の状況

戦後、佐賀県が考古学上大きく注目されるようになったのは、現在の公園の東口から約3km北側に位置する「三津永田遺跡」(図中吉野ケ里地区)の調査でした。昭和27年末、段丘がみかん園として開墾されてことで、多くの甕棺が出土し、そのひとつから人骨とともに前漢時代の銅鏡連弧文昭明鏡が出土しました。翌28年に水害が発生し、護岸工事のために丘陵地から土が採られた際に、多数の甕棺とともに、管内から人骨と共に鉄器や貝製腕輪・ガラス製の玉などの貴重な遺物が出土しました。
このため、日本考古学協会が主体となって、翌29年7月までの間、緊急発掘調査を実施し、弥生時代前期から後期にかけて、この地方でも大陸との交流があったことが認識されました。
昭和40年代後半からは、大規模開発の増加に伴い、調査体制も次第に増強され、本格的な発掘調査が実施されるようになりました。吉野ヶ里遺跡の北東に位置する「二塚山遺跡」(図中横田地区)の発掘調査もその一つで、昭和50~51年、甕棺墓を主体とする弥生時代墓地が完掘され、多数の銅鏡や鉄製武器その他の副葬品・装身品など、三津永田遺跡と非常に類似した遺物が出土しました。
昭和55年には、現在公園の「倉と市」周辺部でも調査が実施されました。弥生時代後期の高床倉庫と考えられます堀立柱建物遺跡数棟や、さらに西方では、南北方向の自然の河川跡とも考えられるものが検出されています。段丘頂部では、弥生時代の甕棺墓群や竪穴建物跡とともに、18基の甕棺墓が整然と二列に並んでいることが確認されました。また、甕棺内から出土した人骨6体は、「三津永田遺跡」の人骨と同様に、北部九州・山口型の人骨であることが判明しました。
昭和56年から57年にかけて、佐賀県教育委員会により、圃場整備に伴う段丘裾部の水田部の調査が実施され、弥生時代中期の高床倉庫と考えられる掘立柱建物跡群や壕跡などが検出され、炭化米多数や竪杵などが出土しています。

昭和60・61年になると、筑後川から佐賀平野の東部を横断して、嘉瀬川に水を運ぶ佐賀東部導水路の建設に伴って、県教育委員会により段丘南部の調査が実施され、弥生時代~中世にかけての竪穴建物跡や建物柱穴、甕棺群と後期の壕跡などが検出されています。

吉野ケ里の国(クニ)を構成する村(ムラ)

 

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