弥生人の声が聞こえる
 吉野ヶ里歴史公園

  • ENGLISH
  • 韓国語
  • 中国語
  • 文字サイズ
  • 文字サイズを大きくする
  • 文字サイズを小さくする
  • 文字サイズをリセットする

ホーム > 吉野ヶ里遺跡の紹介 > 昭和10年以前の吉野ヶ里遺跡の研究

吉野ヶ里遺跡の紹介

昭和10年以前の吉野ヶ里遺跡の研究

北部九州の考古学研究は大正時代から活発化しますが、おびただしい数の青銅器を有する福岡地方が研究の中心となり、九州弥生文化の中心は福岡平野などの玄海灘沿岸地方であると認識されていました。
佐賀県では、大正時代後半から研究が始まり、甕棺や一般の弥生土器の存在が多い佐賀平野東部地域がその中心となり、昭和9年になると、吉野ヶ里遺跡を取り上げた報告が相次いで発表されました。
まず、七田忠志(※1)は、周辺の弥生時代遺跡や、そこから出土した人骨、貝製腕輪、銅鏡、銅戈鋳型の出土を報じ、佐賀平野にも注目するよう訴えました。甕棺を中心とした弥生時代~奈良時代遺跡の分布地図を掲載し、「脊振南麓一帯におびただしく散在する弥生式甕棺遺跡及び有明海周辺貝塚群と共に是非究明を要するものであり、併せて今後研究不十分なる肥前地方古代遺跡遺物の解明を諸先生に懇願する次第である」と述べています。
三友国五郎(※2)は佐賀平野東部の甕棺墓地や貝塚を紹介する中で、「佐賀平野は南方に肥沃する沖積平野があり、更に古代人にとって非常に食料を供給する海(有明海)を控え、しかも北方は脊振山塊が自然の防御線となり生命線となっているから、この脊振山麓は絶好の古代聚落地をなしたであろうと推定させられる」と延べ、吉野ヶ里遺跡について一項目を設け、特に甕棺の数量の多さなどについて詳しく報じ、埋置状況の図面を付して特徴について詳しく報告しました。

※1 神埼郡仁比村山出身、神埼高校教師の傍ら吉野ヶ里遺跡の存在とその重要性を指摘。大正1~昭和56没。
※2 埼玉県出身、元埼玉大学教授。専門は人文地理学で、先史時代~古代の集落立地に関する研究者として知られる。明治37~昭和58没。

ページの先頭に戻る