弥生人の声が聞こえる
 吉野ヶ里歴史公園

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吉野ヶ里遺跡の紹介

生活と祭祀

この時期に新しく出現してきた天祭的祭祀は「暦」の祭祀であったと考えられます。
農耕儀礼を主体とした「暦」の祭祀が吉野ヶ里環壕集落の一年の生活サイクルを規定していたと考えられます。

四季の暮らし

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春(3月~5月)

春はこれからはじまる稲作のための田お越しや畦畔の修理など、稲の種まきや田植えのための準備が行われます。これに伴う稲作の予祝のための祭が祭祀の中心であり、なかでも稲の種まきに伴う播種儀礼は、春の祭りの中で最も重要な祭りであったことが想像できます。

弥生時代の稲の播種儀礼の実体は不明ですが、東南アジアの稲作地帯で鶏や豚などを生け贄として捧げる風習があることや、佐賀県菜菜畑遺跡の水田跡畦畔や奈良県唐古鍵遺跡からブタ(イノシシ)の下顎骨が出土していること、9世紀初頭の『古語拾遺』の「御歳神」についての記述の中に「大地主神、田をつくる日に、牛のししを以て田人に食わしめき」と、稲作のはじまりに当たって牛を犠牲として捧げた様子が記述されていることから、動物を犠牲として捧げる風習が存在したことが考えられます。
出土例から、ブタ(イノシシ)を捧げることが一般的だった可能性が高いです。

また、伊勢神宮の稲作儀礼を記述した『皇太神宮儀式帳』、『止由気宮儀式帳』(9世紀前半)では、播種儀礼のための鍬(忌鍬)の柄を作るために、祭官が山入りすることが播種儀礼の始めの儀礼と記述されています。

弥生時代後期後半の吉野ヶ里環壕集落でも、こうした特別な祭りに使う農具は祭司者によりそのたびごとに製作された可能性が考えられます。伊勢神宮では、神宮の田の播種儀礼が終わった後、周辺の村々の種まきが始められたことが記録されています。

暦の祭祀がはじまったと推定される弥生時代後期後半の吉野ヶ里環壕集落では、古代中国の例に倣い、「王」が暦の支配を示すために、「クニ」の首長達を集め集会を行い、その席で日影測定による種まきの日を指示したことも想像できます。

稲作儀礼の他、春の訪れを祝う予祝の祭として、東南アジアの民俗事例や、日本各地の民俗事例、『万葉集』などに見える?歌・歌垣や菜つみ花見が祭として行われた可能性もあります。

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夏(6月~8月)

夏は田の草取りや中耕のほか、養蚕が行われたことが想像できます。吉野ヶ里遺跡、立岩遺跡28号棺などから出土した絹により、弥生時代にも絹が存在し、織り密度や繊維断面計測値などによる中国、楽浪産絹との比較から、すでに北部九州地方で養蚕が行なわれていたことが確認されている。

養蚕は桑の葉が盛んに繁る6月、7月頃を中心に行われたと推定できます。また、吉野ヶ里遺跡では甕棺墓から麻が出土しており、麻が育つ6,7月頃に平行して麻の栽培がおこなわれたことも推定できます。

これらの農作業に伴う祭祀に関しては不明な点が多いですが、稲の生育を阻む害虫の駆除を祈って行われる虫追い儀礼に関しては、『古語拾遺』の「御歳神」のなかに稲の害虫を退治する手段として牛の肉と男根形の祭具を田の水口へ置けとあり、この記述と対応するような男根形木製品が唐古鍵遺跡などから出土していることから、存在した可能性があります。

この季節はまた、一年で最も日が長くなる夏至が訪れる時期でもあります。
吉野ヶ里遺跡の北内郭の主軸は夏至の日の出と冬至の日の入りの線と一致しており、夏至に祭りが行われたことは十分想定できます。

古代中国では『週礼』、『准南子』に夏至の日影測定を行ったことがみえ、『漢書』王?伝に都の北郊にある方壇で祭祀を行ったことが記述されています。古代中国の夏至節は行事の上では端午と似通っており、本来、雨乞いの祭礼としての性格が強かったという指摘があります。

こうしたことから、夏至の日に日影測定や雨乞いの儀礼が行われた可能性を考えることもできます。

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秋(9月~11月)

秋は稲の収穫の季節であり、一年の行事の内で最も重要な収穫祭が行われたことが推定できます。弥生時代の収穫祭の儀礼は、伊勢神宮の稲作儀礼を記した『皇太神宮儀式帳』、『止由気宮儀式帳』などの古代文献、東南アジア稲作地帯の民族事例、アエノコトなど日本の民俗事例から、収穫した稲を神や祖霊に捧げ、その稲で作った飯と酒など供物を供え、それを神や祖霊と共に共食することを基本にしたと推定できます。
収穫祭は後に、新嘗祭、神嘗祭などと呼称されるようになりました。

『万葉集』に「誰そこの屋の戸ぶるニフナミにわが背に遣りて斎ふこの戸を」(誰ですか、この家の戸をがたがた押すのは。ニイナメの夜で夫さえも外に出して忌みこもっていますのに)という歌があり、古代においてニイナメの祭の主体がその家の主婦で、一定期間物忌みを行われたことを窺わせます。
このように家の主婦が稲穂を祭り、一定期間物忌みを行う収穫祭の形態はマレー半島など、東南アジアの稲作地帯にも存在します。またこの時、稲穂を天井など家の中の高い場所に吊し、神や祖霊に捧げる風習も広く見られるところです。これは高い場所がより神聖であるという観念の表れとされています。

弥生時代にも家の女性達により稲を祀る儀式が行われたことや収穫した稲穂を天井から吊して神や祖霊に祈りを捧げる風習が存在した可能性が考えられます。収穫祭の前には祭に使う道具の製作や、収穫の日を「王」が占う日影測定、これを伝えるための集会が行われたことも想像できます。『魏志』倭人伝には収穫祭の様子は記述されていませんが、『東夷伝』の馬韓には「10月に刈り入れが終わると昼夜酒を飲んで舞い歌う」という記述があります。

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冬(12月~2月)

冬は、一年の内で最も日の短くなる冬至が訪れる季節です。太陽の光が最も弱まり、この日を境に少しずつ日足が延びていく冬至を太陽の復活と関連づけて祝い、祭を行う風習は広く、世界各地の民俗風習に見られるところです。

古代中国では『周礼』に冬至を正月とする暦を使用していたことが記述されており、この日、天子が都の南郊にある天壇におもむき、祭祀を行う冬至天が行われました。
その後、立春をもって正月とする暦が採用されたが、魏の景初元年に再び冬至祭天を行うようになったとされています。
宮中の大嘗祭も冬至の頃に行われ、古くは冬至を以て新年としていたことを想像できます。

吉野ヶ里の北内郭は夏至の日の出、冬至の日の入りを結んだ線と主軸が一致しており、冬至が極めて重要な日と意識されていた可能性が高いでしょう。

これらのことから、弥生時代後期後半の吉野ヶ里地域では冬至を新年の指標としていたと推定しました。この日は、「王」により、一年のうちで最も重要な日影測定が実施されたと想像できます。また、大嘗祭前夜の鎮魂祭のように太陽の復活を祈って歌舞が行われたことや、東祭殿で儀礼が行われたことが想像できます。
また、収穫後からこの新年を迎える頃までに、周辺の各集落から租税としての物品が運び込まれ、そこで市が開かれたことも想像できます。

冬至から春を迎えるまでは、その年の豊作を祈って、また、様々な予祝の祭りが行われたと考えられます。

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