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 吉野ヶ里歴史公園

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吉野ヶ里遺跡の紹介

農耕

吉野ヶ里環壕集落の近辺では調査にかかわらず水田跡が発見されていません。しかし、吉野ヶ里丘陵の西側を流れる貝川に接する現在の水田部で、鋤、鍬、竪杵などの木製農具が発見されており、農耕が行なわれていたことは確実です。
ただし、様々な側面から一般の集落と異なると考えられることや、主たる居住者であったと想定している支配者層(大人層)が日常的に一般的な農耕労働に従事していたか疑問が残ること、『魏志』倭人伝の記述や後の官衙にも匹敵する大規模な南内郭西方倉庫群の存在から周辺の集落から租税を徴収していたと考えられたことから、一般の集落における農耕とは異なり、一定の限られた目的のために行われていた農耕であったことが考えられます。
伊勢神宮には神嘗祭などの祭りに使用し、神に捧げるための供物(飯と酒)をつくるための水田(御田)が存在し、その他、神事に使用するものは祭祀を行いながら神宮内でつくる風習が存続してます。
こうした風習は9世紀にはすでに存在していたことが『皇太神宮儀式帳』等から知ることが出来ます。
吉野ヶ里環壕集落における農耕もこうした性格ものであった可能性があります。

南のムラでは水田、畑、果樹園などを利用した様々な農作業が行われていました。

春から秋にかけては水田で稲作が行われ、日々農作業に追われていました。
また、同時に畑ではソバ、オオムギ、アワ、ヒエ、キビ、などの穀類や、マメ類、ウリ類、大根などの野菜などが生産され、果樹園ではヤマモモやモモ、アンズ、カキなどが育てられていました。
畑はかなりの広さで、その中を、それぞれの生産単位ごとに管理していました。畑の中には、地力を回復させるために休耕地もありました。

このようにして収蔵された作物はそれぞれの一家に必要な分を除いて、吉野ヶ里の国の租税として倉と市に収められていました。

このほかにも、麻や桑、染色の材料となる植物なども栽培されていて、麻から布の材料となる麻糸を生産し、桑は絹糸のもともとなる蚕の餌として利用されていました。