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 吉野ヶ里歴史公園

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吉野ヶ里遺跡の紹介

南のムラ地域の全体像

  • 弥生時代初頭から後期終末期まで集落域として利用された地域であり、弥生時代初頭から中期中頃まで、周辺の集落を主導する立場の集団が環壕集落を営んでいました。
  • ただし中期前半に祭壇(檀上遺構)が設けられるとその周辺では集落は営まれなくなりますが、後期後半になってこの祭壇の周囲に溝が設けられると北墳丘墓と深い関わりともって存在する北内郭との間に竪穴建物や堀立柱などの居住施設は営まれなくなります。
  • 後期後半になると外環壕により囲まれた段丘部分を取り囲むような状況で竪穴建物と高床倉庫からなる集落が存在します。(中略)集落域の建物比率は、竪穴建物3に対して堀立柱建物(高床建物)1の割合であったと考えられます。この割合は弥生時代後期を中心とした集落で、多数の竪穴建物と堀立柱建物が発掘された福岡県筑紫野市の「以来尺(いらいじゃく)遺跡」でも同様です。
  • この「南のムラ」では弥生時代後半の前期までは高床倉庫群が段丘裾部に集中して存在していましたが、弥生時代後期後半~終末期には「倉と市」に集中して設けられています。
  • 一帯は、土取りや開墾による地形の改変が大規模におこなわれたため全体像は把握しにくいですが、尾根部分を取り囲むように北へ開く平面馬蹄型に集落が営まれていたようです。
  • 尾根部分の建物跡空白地では弥生時代後期以降古墳時代初頭までの間、建物以外の遺構も殆ど存在しませんが、北西隅で唯一土壙の存在が確認されました。土壙からは復元対象時期の土器多数を出土しましたが、中には手焙(てあぶり)型土器が含まれており、この空間の中で祭祀的な行事が行われていた可能性も考えられます。
  • 「南のムラ」地域は「北内郭」・「南内郭」にすむ人々と「南のムラ」に暮らす集団のために必要な生活資材や水田以外の食糧供給の場として、畑地が存在した可能性が高いと考えられます。
  • 吉野ヶ里遺跡では弥生時代中期から後期にかけて10基の甕棺墓から多様な織り方によって織られた貝紫やあかねで染められた国産の絹布片が出土していますが、この絹布は吉野ヶ里遺跡や周辺で織られたものと考えられており、この「南のムラ」一帯の畑地や空閑地に養蚕用の桑の木が植樹されていた可能性があります。
  • 段丘南端に位置する祭壇の可能性を持つ大規模な檀上遺構の周囲に1~2条の溝が巡らされています。「北内郭」・「南内郭」などと同様、機能を特別科するために設けられた施設である可能性が高いでしょう。以上のように「南のムラ」地域には、特別な機能を持つ際だった建物施設が存在しないことから、いわゆる一般の集落構成員の居住区であったと考えられます。しかし、約40ha規模の大環壕集落内部に存在することは「北内郭」・「南内郭」に居住するが高い階層の集団を支える集団の居住区と考えられます。

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