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 吉野ヶ里歴史公園

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吉野ヶ里遺跡の紹介

服装

当時の服装を推定するため吉野ヶ里遺跡出土の絹、麻などの遺物、『魏志』倭人伝の記述、弥生時代の絵画土器や銅鐸に描かれている人物を主な資料としました。また時代が下がる人物埴輪に見られる服装や高松塚古墳壁画、天寿国繍帳、同時代の中国の画像石なども参考としています。
これらの資料の他に服装を考える際の一般的な要素として祭などのハレの日の服装と、日常の服装、階層差、性別、年齢による区別も考慮しました。

吉野ヶ里遺跡出土の布

吉野ヶ里遺跡からは絹および麻が出土しています。これらの鑑定にあたった布目順郎氏によりその概要、特色は以下のように整理されています。

衣服

吉野ヶ里遺跡出土の布

【ア.家蚕の絹である】

出土品は繊維断面形より見ていずれも家蚕の絹であり、楽浪系の三眠蚕と華中系の四眠蚕があります。このうち、華中系は中期初頭、中期前半の甕棺から出土し、楽浪系は中期後半、後期初頭の甕棺から出土ました。

【イ.日本製の絹である】

中国漢代に絹と織り密度や繊維断面計測値を比較してみると、顕著な違いが認められ、日本製の絹であると考えらます。

【ウ.他の弥生時代遺跡には見られない繊細優美な透目絹が存在する】

吉野ヶ里遺跡出土の絹はほとんどが透目のものであり、織りはやや粗末なものと繊細優美なものがあります。このうち後者に属するような繊細優美な透目絹は、これまで他の弥生時代遺跡から出土例がなく、吉野ケ里に高度な絹織物の技術が存在したことを窺わせます。
このことから、筬をもつ絹機のようなものが既に導入されていた可能性が考えられる。透目絹は華中方面の古代絹に多く、華中方面との交流が考えらます。

【エ.染色された絹が存在する】

透目絹の中には、一見して染色されているものが幾つかあり、前田雨城氏らの研究グループが分光蛍光光度計による測定と解析を行った結果、日本茜と貝紫が検出されました。これにより、赤と紫に染められた透目絹が存在したことが確認できます。

【オ.麻布が出土した】

これまで弥生時代の甕棺内から、絹は出土しましたが麻布は出土していませんでした。吉野ヶ里遺跡では、二つの甕棺から大麻を材質とした麻布が出土しました。大麻布はいずれも織り密度で高度の織布技術を持っていたことが窺えます。

【カ.袖を縫いつけたものらしい絹が発見された】

墓の中に縫い糸を持つのが存在しました。縫いつけ箇所で糸の方向が90度異なっており、身頃に袖を縫いつけたものであると推定できます。

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庶民(下戸層)の日常着

『魏志』倭人伝は倭人の服装について「男子は皆露し、木緜を以て頭に招く。その衣は横幅、但結束して相連ね略縫うこと無し。婦人は被髪屈し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。」と記述しています。

倭人伝の記述の解釈と復元には諸説があり、未だ決着を見ていません。

男子の衣服の形態については高橋健自氏の「袈裟式説」と猪熊兼繋氏の「織った布を横糸の広さのまま並べ合わせて綴くった布」とする説が著名です。女子については「一幅の布の真ん中に縦の裁ち目を作って、これから頭を貫き、両ワキを綴くり合わせて、その合わせ目の上をあけて両腕を出した」とする説が一般的です。

これに対して、本基本設計の委員でもある武田佐和子氏は「男子の服(横幅衣)と女子の服(貫頭衣)は着装状態から言えばほぼ同一の形状を示すことになり、二種の異なった形態の衣服を指すのではなく、男女に共通して着用された衣服の、一つは製法上から出た、また今ひとつは着装法上から出た名称であり、同一の実体を指すものであったと考えてみたい」と述べています。

そして、その根拠として弥生時代の織布の幅は30センチ前後であったと考えられ、一幅で身幅を覆うことの出来る布幅を持ち、その中央に穴を開けて頭を通して着用するという貫頭衣は、製作することが難しかったと考察しています。

武田氏の見解に基づき、男女とも布を二枚、頭と腕の出る部分を残して脇で綴くりあわせる形態の衣服を検討しました。また人物埴輪や高松塚古墳に見られるようにその後の古代日本の衣服が一貫して前合わせであることや同時代の中国の衣服も前合わせであることなどから、前合わせで腰紐を使用する形態を考えました。

なお、こうした形態の衣服は最も一般的であり、庶民(下戸層)の日常着であったと考えられます。

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上位身分(大人層)の日常着

吉野ヶ里遺跡では富裕層に属すると考えられる人物を葬った甕棺から身頃に袖を縫いつけた絹が出土しており、上位身分(大人層)の衣服は庶民の衣服と異なり袖付きであったことが推定できます。

その他の形態は基本的に庶民層の衣服と異ならず前合わせの貫頭衣であったと考えられます。布が貴重品であったことを考えると、全体的に庶民の衣服より布をたっぷりと使ってゆったりした印象の衣服であったと考えられます。

また庶民は農業労働などに従事するため膝上程度の丈の衣服であったと考えられるが、大人層の衣服の丈はくるぶし上程度まであった可能性があります。前合わせの部分をとめるための品物も紐ではなく帯が使用されたと考えています。

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上位身分(大人層)の祭(ハレ)の衣服

大人層には祭祀儀礼や集会の時に着用する特別な衣装、ハレの衣装があったと考えられます。これについては布目順郎氏が復元考案した弥生時代上層人の衣服に基づきました。布目氏は人物埴輪、高松塚古墳、天寿国繍帳に描かれた人物、『日本書紀』『古事記』『随書』倭国伝などの記述から、弥生時代の上位身分の人々は男女とも衣装を着用したと推定しています。

上位身分(大人層)の祭(ハレ)の衣服

埴輪や高松塚などの人物画から基本的にツーピースで下半身に衣裳をつけ、上半身は上着となる衣装を着用していたと考えられます。こうした上着は埴輪では男女とも喉元あたりから左下方へ斜めにあわせた形式が多いです。しかし弥生時代の衣料生産量を考えると、衣料の節約のため真ん中あわせにしていた可能性が高いとしています。

なお布目氏はこれを上位身分の人々のごく平均的な平常服としていますが、平常服ではなく特別な行事の時に着用するハレの衣服と位置づけています。こうした衣服は大人層の身分の象徴であり、非常に貴重なものであったと推定できます。

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