弥生人の声が聞こえる
 吉野ヶ里歴史公園

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吉野ヶ里遺跡の紹介

祭祀

祖霊が眠る場所として、吉野ヶ里環壕集落の人々の祈りの対象となったであろう北墳丘墓には朝夕、祖霊への供物が捧げられたと考えられます。北墳丘墓全面から出土した祭祀用の土器や東側の大型土壌より出土した多量の土器はこうした供献が行われたことを示すものでしょう。「北上位、南上位」の構造をもつ吉野ヶ里環壕集落のなかで最も格の高い場所であったと考えられることから、日々の供献を行うのは、一般人(下戸)ではなく、祭祀に従事する祭司者であったと推測できます。

北墳丘墓前面や祀堂では朝夕、火を焚いた後が発見されており、祭りの際に日を利用した儀礼が行われたことが推定できます。こうした日を利用した儀礼として古代中国では生犠を殺し、これを焼いて天に捧げる儀礼が冬至祭天の折などに行われており、中国より新しい祭祀の要素を取り入れたと考えられる弥生時代後期後半の吉野ヶ里集落でもこうした儀礼が行われた可能性があります。

弥生時代には銅剣、銅矛、銅鏡などの副葬品や墳丘などを備え、継続的に祭祀が行われた「墓」が出現します。こうした墓の出現は弥生社会の階層分化の状況を物語るとともに、特定の死者(首長霊)に対する社会的な祭祀が出現してきたことを物語っています。弥生時代に新しく出現してきたこうした状況は縄文時代の死霊信仰を基盤としながら、新たに生成してきた「祖霊」信仰の表れとみることができます。これは農家社会の成立に伴い、一定の土地で世代をわたって労働と収穫(豊饒)が継続していくなかで成立してきたものでしょう。死者の霊全般に対する死霊信仰に対し、祖霊信仰は父方か母方かは別にして、特定の先行世代の死者が系譜的に現成員に連なり、現成員の生活に影響を及ぼすという観念が明確になったものです。重要なのはこうした「祖霊」に対する信仰が階層分化に伴って首長制と結びつき、支配原理として発展していったと考えられることです。首長霊を「祖霊」として祀り特別な聖性を付加することはその霊力を背景とした支配者の支配力をも高めることとなります。

福岡県吉武高木遺跡の青銅器を副葬する甕棺墓が集中する墓域とこれに面した大型堀立柱建物(前期末から中期初頭)、福岡県須玖岡本遺跡の青銅器を多量に副葬する墳墓(中期)、佐賀県柚比本村遺跡の青銅器を副葬する甕棺墓群と大型堀立柱建物、これと一直線上に並ぶ祭祀土坑(中期から後期初頭)など、青銅器の副葬品を有した墓とこれに関連すると考えられる大型建物の存在は特定の死者(首長霊)を「祖霊」として祀ることが弥生時代に出現してきたことを裏付けています。

多くの民俗学者が大嘗祭の儀礼のなかで指摘する、天皇霊の継承により新天皇が誕生するという不滅の霊魂「天皇霊」と、これを継ぐ肉体としての天皇の聖性の観念の原型とも言える不滅の首長霊と現実社会を媒介する聖なる支配者の観念が弥生時代に生成していったと考えられます。 吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の築造と北墳丘墓、南祭壇を北端、南端付近に取り込んだ環壕集落の成立、さらに北内郭の成立はこうした「祖霊」信仰を支配原理とした弥生時代の世界観を遺跡としてよく表しています。

さらにそこには北に祖霊を祀る「宋廟」、南に天壇を置く中国の都城の影響を窺うこともできます。 吉武高木遺跡や柚比本村遺跡などにみられる弥生時代の首長墓と大型建物等で構成される一帯もこうした「祖霊」を祀る「宋廟」に近い祭祀的性格であったと推定できます。

また弥生時代中期後半には北部九州に鏡を副葬した首長墓が表れます。吉野ヶ里遺跡の長大な列埋葬と墳丘墓の造営などにみられる階層分化と地域的政治社会(「国」)の成立を前提に捉えると、この時期に世俗的権威と祖霊祭祀権とが首長といったひとつの身分に体現される状況が確立したことが窺えます。鏡は祖霊の依代としての祭器で、祖霊祭祀を主とする司祭者としての身分と権威ある首長としての身分を表すものとして副葬されました。この習俗は祖霊祭祀の発展、地域的拡大と共に古墳時代へと引き継がれていきました。鏡の祖霊祭祀としての伝統は『日本書紀』の「景行記」、「仲哀記」に地方豪族の天皇への服属儀礼や『出雲国造神賀詞』の和魂の依代としてのあつかいに見ることができます。

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